新潮社の海外文学シリーズ、クレスト・ブックスは、これまでベルンハルト・シュリンクの『朗読者』や、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』などの名作を出してきたことで知られるが、またひとつ、思いがけない作品が刊行された。

 一九八三年、ロシア生まれのクセニヤ・メルニクという女性作家の九つの短篇から成る『五月の雪』。この作家は、十五歳の時に家族と共にアメリカに渡り、ニューヨークの大学で学んだ。ロシアの極東の小さな町に生きる市井の人々を主人公にした短篇連作だが、英語で書かれたという。

 一九七〇年代、ソ連邦の後期から、ソ連の崩壊、そして二十一世紀のロシアと、年代記になっている。

 冒頭の「イタリアの恋愛、バナナの行列」がまず面白い。一九七五年の物語。スターリン時代はすでに去り、なんとか自由の兆しは見えてきているが、それでも庶民の経済生活は苦しい。まともな日常用品がなかなか手に入らない。

 主人公は極東の町に住む三十三歳の女性。二児の母。町の博物館で働いている。仕事でモスクワへ行くことになる。

 飛行機のなかで、イタリアのサッカー・チームと一緒になる。驚くことに、選手の一人が声を掛けてきて、夜、会いたい、ホテルに来てくれと誘う。

 それまで外国人に会ったこともない彼女は困惑する。どうしたらいいのか。多少、心が動かされないことはないが、モスクワに着くと、彼女の頭のなかは買い物のことばかり。田舎町では手に入らない食料や衣料品が首都なら手に入る。

 夫のために、子供のために、行列に並んで買い物に走り回る。珍しいバナナも手に入れる。これほど、七〇年代のソ連の庶民の暮しを切実に描いた小説は珍しいのではないか。

 舞台となっている極東の町は、マガダンという港町。実は、この町はソ連時代、強制収容所があったという。多くの政治犯が送られた。

 最後の一篇「上階の住人」は、スターリンの時代、この町の収容所に入れられた高名なテノール歌手の苦難の人生が回想されている。この歌手は、スターリンを称える歌を歌わなかったために収容所に送られた。

 若い作者は無論、スターリン時代を知らない。しかも現在、アメリカで暮している。にもかかわらず、マガダン生まれという出自のために過去の暗い歴史を引受けようとしている。

◆文・川本三郎

※SAPIO2017年8月号