平成の世を通じ、天皇は象徴天皇としてあるべき姿を模索してきた。だが、歴史を俯瞰すれば、天皇の意思に反して時の権力者が都合のよい天皇像を作り上げた時代も少なくない。ポスト平成に天皇像はどう変化するのか。現代史の専門家・秦郁彦氏と中世史の専門家・本郷和人氏が歴史を踏まえて考察する。

本郷:ヨーロッパには、栄光の古代、暗黒の中世、ルネッサンス以降の近代という形で区分する歴史観がありますが、日本の皇国史観もそれと同じです。天皇親政を理想とするので、大化の改新と明治維新が輝かしい時期であり、その間に建武の中興があったと考える。天皇が政治の先頭に立っているときが、いちばん良い時代だというわけです。

秦:戦前に東京帝大教授だった平泉澄さんもそうでした。彼は宮中で昭和天皇にご進講をしたことがありますが、建武の中興で功績のあった楠木正成を褒め称えたんですね。ところが昭和天皇は「後醍醐天皇にも失政があったのではないか」と言ったそうです。しかし明治維新の志士たちも、楠木正成に自らの立場を重ねて賞賛しました。だから、正成が忠誠を尽くした後醍醐天皇も偉いということになる。すると、南朝が正統になってしまうんですよ。

本郷:明治維新の志士たちが忠誠を誓った明治天皇は北朝の子孫なので、南朝を正統とするのはおかしい。しかし倒幕を果たした西郷隆盛らの根幹にあった水戸学では、南朝が正統です。

秦:そもそも兄弟の順では、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)のどちらが上ですか?

本郷:持明院統の後深草天皇が兄で、大覚寺統の亀山天皇が弟です。ところが、南朝正統を主張する北畠親房の「神皇正統記」は、そこでデタラメを書いてるんですよ。北畠家が仕えた後嵯峨天皇については、後鳥羽天皇がかわいがった順徳天皇よりも「兄だから正統だ」と力説するのに、後嵯峨天皇の次の代になると、兄の後深草ではなく弟の亀山(大覚寺統)のほうに仕える。すると「兄のほうが正統」という理屈が使えないので、北畠親房はそこには触れない(笑)。しかし朝廷ではずっと、北朝が正統であることが当たり前とされていました。

秦:それなのに北朝の子孫である明治大帝を前にして南朝正統を主張するのは、「おまえさんは妾の子だよ」というようなものでしょ。しかもその先頭に立ったのが山縣有朋、長州藩の足軽にもなるかならないかぐらいの出自ですよ(笑)。『明治天皇紀』には、南朝の正統性を国家として認めた枢密院会議に「明治天皇ご欠席」と書いてあります。明治天皇なりの抵抗だったのでしょう。

本郷:山縣有朋は、「軍務においては元帥である自分のほうが格上」と考えて、軍人だった皇族とすれ違っても頭ひとつ下げなかったという話があります。

秦:天皇は単なる「玉」にすぎないというのが本音なんです。明治維新の志士のほとんどが、戦略的に天皇をいかに利用するかだけを考えていた。極端な例が、戊辰戦争における錦の御旗の偽造ですよ。「私製」の旗を見て「賊軍になった」と思い込んだ徳川が揺らいでしまったのですから、明治維新は一大虚構の上に成り立っていたともいえます。

本郷:思想戦ですよね。

秦:それ以降、天皇家は自分たちが北朝系であることを口にしにくい状態でしたが、二・二六事件のときに皇統問題が浮上します。昭和天皇は反乱軍を討伐しようとしましたが、軍部が相手となると南朝問題を意識せざるを得ない。そこで「私も北朝の末裔ではあるが」と言うと、内大臣が周囲と協議した上で、「皇統が正統であるかどうかは三種の神器をお持ちであるかどうかで決まると考えます」と答えたんです。

【PROFILE】はた・いくひこ/1932年山口県生まれ。現代史家。東京大学法学部卒。大蔵省入省後、防衛大学教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学教授などを歴任。著書に『靖国神社の祭神たち』『慰安婦問題の決算』『実証史学への道』などがある。

【PROFILE】ほんごう・かずと/1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。中世政治史が専門。東京大学文学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。近著に『軍事の日本史』『考える日本史』『やばい日本史』などがある。

※構成/岡田仁志(フリーライター)

※SAPIO2019年4月号