19歳のときに肺結核を患って右肺を摘出し、医師から「40歳まで生きられないだろう」と言われたのを機に、喜劇の世界へ入ることを決意したという大村崑さん。

1957年、26歳のときに大阪・北野劇場の専属コメディアンに。北野劇場は、1937年に宝塚少女歌劇公演のために作られた舞台が電動で動く劇場だったが、戦後進駐軍が接収して改修。奈落も電動でせり出し、雨降らしなど水の使用もできるすごい設備の劇場になったという。

◆コメディアンとして人気者に

大村さんが北野劇場の専属になったときに在籍していたコメディアンは、大村さんとひとつ年上の佐々十郎さんただひとりだったという。

「佐々やん(佐々十郎さん)は浅草(東京)の生まれで、新宿の『ムーランルージュ』で修業したコメディアンなんですけど、そこにもうひとり、茶川一郎さんが参加するんです。茶川さんはミナミ(大阪)の『南街ミュージックホール』で座長をやっていたんだけど、そこが潰れて映画館になったので『北野劇場』にやって来たんです。

佐々やんと茶川さんにはいじめられた、いじめられた(笑)。でも、それは今考えたら彼らがいじめてくれたから今の自分があるんだと思いますよ。もしあれがいじめられんとやっていたら、変な大阪弁を使う落語家みたいになっていたと思う。全国区に行かれなかったんじゃないかな。

テレビになったらやっぱり標準語でやらないかん。僕は関西人やけど神戸の人間やからベタベタの大阪弁じゃないんですよ。神戸弁というやつ。ハマっ子の言葉。

だから他国の言葉がよく入っているんですよ。訛りもね。『来とってか』『来とってやで』『言っとってや』という感じで、神戸に『とって』が多いから言うのかいうぐらい『とって』が出て来るんですけど、そういう言葉と佐々やん、茶川さんの江戸弁を混ぜてしゃべると全国区に通じる言葉になったんですよね。

佐々やんと茶川さんは大阪の嫁さんを見つけたんです。外国人でもそうでしょう? 日本人と結婚したら日本語を覚えるのがうまい。だから僕が使ったのは佐々弁、茶川弁で関西弁と違うんですよ。

関西の人間が聞いてもおかしくない、気持ち悪くならない。変に東京の人が『わては』とか『知りまへんですよ』とか言うたら『わぁ、やめてよ』ってなるけど、佐々やん、茶川さんは上手に嫁さんに矯正してもらってそれを合体した関西弁を話すんです。僕らからすると不思議な関西弁だったから、『佐々弁、茶川弁』なんて言っていましたけど、僕はそれを覚えたから言葉には不自由しなかったんです。

でも、『北野劇場』の専属になったはいいけど、ものの数年で『北野劇場』がなくなっちゃって。テレビが普及してみんなテレビを見るようになったから誰も劇場に来ないんですよ(笑)。家にいるほうが楽だしね。

その頃、東宝と契約してラジオの台本や劇場でショーの合間のコントを書いていたのが花登筺先生。『北野劇場』で上演する新人スターのショーを頼まれるようになって僕らもそのショーのコントに出演したんですけど、そのドタバタのコントが大評判になって。『北野劇場』で生まれた新しいドタバタ喜劇『軽演劇』は大阪で大人気になって、その勢いで花登先生と僕らはテレビへと進出するんです」

◆舞台からテレビの世界へ

1958年、西日本で最初に開局した民間のテレビ局、大阪テレビ放送(’59年から朝日放送)で公開コメディ『ダイハツコメディ やりくりアパート』の放送がはじまる。これは大阪の下町にあるアパートを舞台に、住人である青年3人組や管理人が巻き起こすドタバタを描いたコメディ。大村さんは学生役で人気に。

「当時はVTRなんてないから、すべて生放送。でも、僕らはいつも舞台で、生でやっていたわけだからあまり違和感はなかったです」

−すごい人気だったそうですね−

「そう。最高視聴率が50%に達するほどのヒット番組になって、僕と佐々やんでやったダイハツの『ミゼット』の生コマーシャルも話題になったし、この番組で脚本家デビューした花登先生は一躍人気作家となりました」

『やりくりアパート』は『やりくり天国』、『やりくりシリーズ青春タックル』とシリーズ化されて4年間続くことに。

「最初は『北野劇場』に出演しながらのテレビ出演でしたからね。めちゃくちゃ忙しかったです。劇場では映画と実演を代わりばんこにやっていたので、映画を上映している間に稽古して実演で舞台に出て、映画になるとまた稽古の繰り返し。それで、夕方6時から7時の間にテレビ局に行って生放送という毎日でした。

『やりくりアパート』の翌年には開局間もない毎日放送で『番頭はんと丁稚どん』がはじまって、これも人気になって3年間、毎週月曜日に放送されていました。映画作品も4本作られたんですよ。だから本当に寝る暇もないほど忙しかった。

そして同じ年の秋、僕が主役の『とんま天狗』(よみうりテレビ)がはじまるんです。これはタイトル通り『鞍馬天狗』のパロディで、主人公の名前がスポンサーである大塚製薬の商品名の『尾呂内楠公(おろない・なんこう)』。

決めゼリフは『姓はオロナイ(ン)、名はナンコウ(軟膏)』。これもまた『姓は丹下、名は左膳』のパロディ。長屋の兄ちゃんが、夜になったら覆面をかぶって悪い奴をやっつけて帰ってくるんです。

『とんま天狗』の最初のゲストは、三木のり平さん。とんま天狗のお父さん役で、メガネをおろして出てくれました。僕は三木先生には可愛がってもらったんです。似ているって言われるからね。よく間違えられましたよ(笑)。三木先生は僕に『崑ちゃん、俺は鼻メガネを君に譲るよ。俺はちゃんとメガネを取ってやる。メガネをかけるときもずらさないでちゃんとかけるから』と言ってくれました」

『やりくりアパート』をはじめ、レギュラーが11本という超ハードなスケジュールを過ごした大村さん。最初は全部生放送、VTRになってからも編集が効かないため、一発撮りで生放送と同じだったという。

「生だと最初はええけど、時間が押してケツがなくなるときがあるんですよ。『何だったの?あのドラマは』ってね(笑)。やっているうちに、じゃんじゃん変わってくるんだから。巻き巻きで、最後残しておいて巻き巻きで。たとえば五千円探しているという芝居があるとすると、『あの五千円はどうした?』って聞くでしょう? そうすると、『探していますがわかりません』とかって。

(芦屋)雁之助なんかはツッコミだから、50秒とか1分とかの巻きのサインが出たら、『あったか?』って言って、僕がまた『あの五千円ですか』って言ったら終わってからものすごく怒られるんです。『巻きでカットしていることを言うな』って。

それから歌舞伎の有名な役者さんが出てほら貝を吹く芝居があってね。ほら貝をもって、『フーッ』てやったのに、そのとき音が出なかったので、のぞいたら『フーッ』って言って慌てて口に入れたりして、それでウケまくったの。それで、その人が出てきたらみんな『フーッ』て吹いてしまうんですよ、生放送で。全部吹いて終わってしもうたんです。だから役者はみんな始末書を書いて怒られましたよ(笑)」

◆出会ったその日にプロポーズし合同結婚式

レギュラーを多数抱え、睡眠時間2、3時間という超多忙な日々を送っていた大村さんは1960年3月1日、芦屋雁之助さん、芦屋小雁さんと一緒に結婚式をあげることに。

「昭和34年(1959年)の夏、花登先生が突然『雁之助も小雁も結婚するから、この際、崑ちゃんも一緒に結婚式を挙げたらどうや』って言ったんです。つまりレギュラーが多いから、3人がそれぞれバラバラに結婚して新婚旅行に行ったら番組の放送が困ってしまう。だから、3人一緒に1週間休ませようということなんです。

雁之助と小雁はいいですよ。翌春に結婚することが決まっていたからね。でも僕は、6年間付き合っていた彼女にフラれたばかりだったから相手がいない。花登先生には相手を探せとハッパをかけられるしね。どうしようかと思ったけどそれから半年後、シャンソンのオーディションでテレビ局に来ていた瑤子さん(妻)に出会って一目ぼれして(笑)。

僕は番組の収録中やったんですけど、『弟がファンなんです』と言って彼女がサインをもらいに来たので、会ったその日にプロポーズ。デートは2度か3度で、出会って半年で結婚しました」

合同結婚式があった1960年の年末に『とんま天狗』が終わるが、それでも生放送が9本あり、多忙だったという。そんなとき、あの有名なコマーシャルの話が。

「大塚製薬の宣伝部長さんが訪ねて来て、新しく発売する炭酸飲料ドリンクのオロナミンCのコマーシャルに出演してほしいと言われたんです。『とんま天狗』でオロナイン軟膏が日本人に定着したので、『大村崑は使える』って思ったんでしょうね。

最初は『やってみようかな』と思ったんですけど、企画書の宣伝文句の『元気ハツラツ!オロナミンCドリンク』というのが気になったんです。僕は肺結核で片肺を取っているから、ちょっと走っただけでもゼーゼーいっちゃうし、医者には『40歳までは生きられないだろう』と言われていますからね。実際にはちっとも『元気ハツラツ』じゃないんです。

そのとき僕は30代半ばでしたから、もしかすると5年後にはこの世にいないかもしれないじゃないですか。だから、契約書に書いてあったギャラの金額もろくに見もせずに、『やりたいけど、からだのことを考えるとできない』って断ったんです。

しばらくすると、今度は大塚製薬の専務がやって来たんですけど、やっぱり断りました。うちの奥さんも宣伝部長さんのときから同席していましたけど、何も言いませんでした。そうしたら、今度は副社長が現れてね。宣伝部長、専務、副社長と回を重ねるたびに、契約書のギャラの数字はゼロが増えていったんです。

でも、やっぱり断るしかないなあと思って断ろうとした瞬間、僕の横で契約書の数字を見ていた奥さんが、『やらせていただきます!』と言っちゃったんですよ(笑)。それで、その日のうちにコマーシャルの試し撮りをはじめて、次から次へと新しいコマーシャルを作ることになって。

代理店が一応企画をもってくるんですけど、それだけじゃつまらないじゃないですか。だからいろんなパターンを撮るんだけど、ついアドリブを入れたくなるんですよね。『崑ちゃん』のトレードマークは、三木のり平さんから譲り受けた、ずりおろしたロイドメガネ。撮影直前、『メガネをおろして』と言われたときに、『最近、おもしろいことがないからメガネが落ちないの』って言ったんですよ。

みんな疲れていたから現場を笑わせるつもりで言ったんですけど、監督が、『それおもろいね。うれしいとメガネが落ちる、というのをやろうよ』と言い出して、そこから『うれしいとメガネが落ちるんです』というキャッチフレーズが生まれたんです(笑)」

絶大なる人気を博した大村さんは、1965年に『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜てき。1970年には『細うで繁盛記』(日本テレビ系)でコミカルな演技を封印した渋い演技が話題に。幅広い役柄に挑戦していく。

次回後編では、27年ぶりに出演した映画『ロボット修理人のAi(愛)』(田中じゅうこう監督)の撮影裏話、愛妻・瑤子さんと励む筋肉トレーニングなどについて紹介。(津島令子)