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1971年、経営難に陥っていた日活が社運をかけて製作した日活ロマンポルノ第1弾『団地妻 昼下りの情事』は連日立ち見が出るほどの大ヒットを記録。主演女優の白川さんの記事が連日のように男性週刊誌やスポーツ紙を飾るようになり、“団地妻”はシリーズ化。日活社内では「白川和子を出せば必ず当たる」といわれたほど。

しかし、人気絶頂だった1973年、白川さんは17歳年上の日活社員と結婚。女優業をいったん引退して専業主婦の生活を始める。

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◆17歳年上の“子連れやもめ”との結婚に周囲は猛反対

日活からデビューした翌年、1972年の正月興行で舞台あいさつをするために大阪を訪れた白川さんは、当時、日活関西支社の営業部次長で17歳年上の男性と出会う。

その年のお盆興行で再会したとき、1月にその男性の妻がまだ小学生と中学生の子ども2人を残して亡くなったことを知らされ、子どもたちのことが心配になったという。

「最初はキザな中年の遊び人にしか見えなかったんですよ(笑)。でも、がんで苦しんでいる奥さんと幼い子ども2人を抱えて苦労していたのかと思うと、気の毒になったんですよね。1月に奥さんが亡くなったと聞いて、子どもたちの面倒は誰が見ているんだろうって心配になりました。

お盆興業で2回目に会ったときは、私も映画や女優への熱い思いがトラブルになったりすることもあって…」

−それはどういうことですか−

「なかにはやる気がなくてイヤイヤ仕事をしている女優さんもいたんですよ。セリフも満足に覚えずに現場に来たり、偉い人にばかりこびへつらったりしてね。私はそういう態度や性格を許せないから注意したんですよ。

そしたらそれが気に入らなかったみたいで、会社の幹部にあることないことを言われて、『後輩たちをいじめるというウワサがあるが本当か?』って問い詰められて悔しくてね。『私よりきのうきょう入った新人女優のウソを真に受けるのか』って…。一生懸命頑張ってきたのに虚しくなりました」

−結婚のきっかけは?−

「お盆の興業以降、大阪と東京の長距離電話でお互いの愛情を肌で感じるようになっていました。それで10月に映画のキャンペーンで大阪に行ったときに自分が置かれている状況を相談したら、『もう苦しまなくてもいいよ。女優を辞めて僕と結婚しよう』って言われて、引退する決意をしたんです」

−「日活の救世主」と言われていた白川さんの結婚、引退はかなり反対されたのでは?−

「大変でした。いわゆる職場結婚ですしね。彼は本社に呼び出されて、女優と社員との結婚は前例がないとか色々言われましたし、辞職も覚悟したと言っていました」

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◆リアル団地妻になるも、周囲の風当たりはきつく…

1973年2月14日、白川さんは結婚式を挙げ、大阪のマンモス団地で中学2年生の長女と小学校6年生の長男と家族4人の生活が始まる。だが、白川さんが団地に移り住んだその日から嫌がらせの電話が鳴りだす。

「電話番号は一応伏せておいたんですけど、引っ切りなしにかかってきましたね。一方的に言いたいことだけののしると切るんですよ。こんなことは想像していなかったです。世の中にこんなことがあるのかって思いました。

でも、下の息子が小学校6年生で長女が中2だったので、この子たちの人生をきちんとしてあげなければいけないということしか頭になかったです。子どもたちが社会に出たときに困らないようにと思って。母性が100%だった私は、自分の幸せよりも子育てに奮闘していました」

−かなり大変だったみたいですが−

「本当に大変でした。団地の一部の主婦たちは、元ロマンポルノ女優が団地に住めば団地が汚れる。子どもたちの教育にも影響が出ると署名運動が行われました。

当時、ロマンポルノはダーティーフィルムと言われていた時代ですから、理解を得られない方もいらっしゃるのは仕方のないことだとは思いつつ、負けるもんかと思ったけど、どうしたらいいかわからない。

そんなときに団地の敷地内にあったお店のご主人が『白川和子さんを団地に住まわせよう!』と声をあげてくれたんです。団地の方にもっと自分のことをわかってもらうには、積極的に地域活動に参加しなくてはと、草むしりとか運動会とか自治会とか、役員もやったりしましたね。でも、嫌がらせ電話はまだ続いていました」

−お子さんたちは大丈夫でした?−

「しばらくすると嫌がらせ電話にも慣れて『アホ』と言って切るようになりました。それと私は周りの人が息子にいろんなことを言うよりはと思って、最初にお嫁に行ったときに1枚の大事なヌードのパネルを持っているんですけれども、それを息子に『はい、お母さんだよ』って言って見せたんです。びっくりしたと思いますよ、息子は(笑)。

最初に会ったときも、主人は『有名な女優さんが来る』とだけ言っていたんですね。だから子供たちは日活の有名なスターさんたちだと思っていたのに私が来たので、『なんだ、全然売れていない女優が来たやん』って言われましたもん(笑)。6年生と中2ではわからないですよね」

−でも人気絶頂でよく引退を決意しましたね−

「子どもが好きだったんですね。結婚して、それまで映画にささげていた情熱を今度は子どもたちにささげようと思ったんです。子育ても作品じゃないですか。

もちろん、子どもを所有物だとは思っていないですけども、作品として世の中に送り出すということがすごく楽しみだったんですよ。だから世の中に出たときに困らないようにと思って厳しかったですよ、息子と娘には」

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◆お弁当のたくあんが卵焼きに?

−結婚されてわりとすぐにご主人はあまり帰ってこなくなったそうですね−

「そうです。地方担当の営業だったので、月のうち半分はいなかったですね。それが良かったんですよ。もし、そこに主人がいたら、間に入って常に子どもとの関係がぎくしゃくしていたかもしれないですから。

いないからお互いに協力をしてやっていくしかなかった。下の息子とは仲は良かったのですが、お姉ちゃんの方がかわいそうなくらいちょっと距離をとっていましたね」

−ちょうど思春期の微妙な年齢でもありましたね−

「そうですね。長女の場合はもう反抗期の真っただ中でした。最初は新しいお母さんができたって喜んでくれたんですけど、だんだん心を閉ざしていって…。

11歳しか離れていませんしね。何度も何度もケンカはしましたね。でも、逆にそういうお互いに言い合える関係だったからこそ乗り越えられると思ったんですよね」

−当時、日活は経営状態がかなり厳しい状態になっていたと思いますが−

「結婚して半年目からお給料がもらえない、遅配が約6年続きましたから、それも大変でした。子どもたちのお弁当にいれてあげるおかずにも困っていました。

黄色いたくあんを『これな、学校に行ってお弁当を開けたら卵焼きになってるで』って言ってね。どうせ貧乏で大変なんだから、これは笑いで乗り切るしかないなって(笑)。

大阪ってそういうノリでというのがありますからね。それにいたずらが好きだったから、お兄ちゃんの好きな女の子の名前をのりで書いたりしていました(笑)」

−そういう明るさもあって苦難を乗り越えられたのかもしれませんね−

「そうですね。自分でもよく乗り越えられたなぁと思います。パワーがあったのかな。若かったのかな(笑)」

ご主人は子どもたちのことは白川さんに任せることが多くなり、結婚した年の秋、白川さんは女児を出産する。反抗期真っただ中の長女とは相変わらず激しく衝突することもあったが、新しい命の誕生で、子どもたち2人も妹の面倒をみてくれるようになったという。

「私が亡くなった後、下の娘が路頭に迷ったときに助けてくれる環境を作っておこうと思ったんです。そのために私は子育てを極力子供たち2人に任せました。お風呂はお姉ちゃん、お兄ちゃんにおしめを替えさせてね。そういう風に3人をいつも一緒にして。

本当は私がかわいがりたかったけどやっぱり子育てというのは、常に子どもの将来ということを考えて、今どうしたらいいのかということをやっていく。それが私の中にあったんですよ。

だから長女にも長男にも『自分がコケたら普通に立ち上がりなさい。でも立ち上がれないときもある。そういうときには絶対に素通りされないようにな。あんたがすごいええ人やったら、みんなが手を差し伸べてくれるよ。そういう人間にならなきゃいかん』って言っていました」

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◆夫の浮気が発覚、息子は暴走族の仲間入り

日活の経営状態は悪くなるばかりで、経済状態は厳しくなる一方だった。生まれたばかりの次女は貧しい生活の余波をもろに受け、同じ年頃の赤ちゃんにくらべると痩せていた。

1歳になった頃、仮性小児コレラを発症し生死の境をさまようという事態に。幸いにも一命を取り留めるが、そんなとき、夫の浮気が発覚したという。

「そのとき私は、3人の子どもたちを育てることと、生活のやりくりで頭はいっぱいだったし、主人を問い詰めれば家族が崩壊すると思ったので、2人の関係には気付かないフリをしていたんですよね。結果的にそれが余計、主人と私の溝を深めていくことになってしまいました」

−お子さんたちは浮気のことを知っていたのですか−

「はい。娘も息子も知っていたと思います。また、その時期、高校生の息子は、頭はリーゼント、ズボンの裾は広いし、見るからにツッパリ生徒。喫煙で高校から謹慎処分を受けたときには無理やり坊主頭にさせたこともあります。

喫煙はやめさせたんですけど、息子は非行の道に入ったと同時に暴走族とも付き合い始めていたんですよね。高校3年生になってもやっていて、暴走族仲間たちと一斉検挙されたのはかなりショックだったようです。それから少しずつ変わっていきました」

−白川さんが仕事に復帰されたのは?−

「結婚して2年ちょっと経った頃、テレビのワイドショーのコメンテーターの話が来たので出演することにしたんです」

ワイドショーへの出演がきっかけで少しずつ仕事も増えていき、再び女優としてテレビドラマにも出演。経済的にも安定していったという。そして長男の高校卒業が決まり、2人の子どもたちが社会人になったので、白川さんは7年間の結婚生活にピリオドをうつ決断をする。

次回後編では、離婚、女優業、自身の子宮がん、脳梗塞、そして別れた夫との再婚を紹介。(津島令子)