17歳でイングランドに渡ってヨーロッパのサッカー観を身をもって体感し、帰国後、日本にサッカーの本質を伝える活動を続けてきた幸野健一。サッカーコンサルタントして多くのサッカー少年少女の保護者の悩みに寄り添い、現在はFC市川GUNNERS代表、市川SC GMという肩書も持つ。自身の長男・幸野志有人は16歳でFC東京とプロ契約し、10シーズンにわたってJリーガーとして活躍。その子育てにおいては、何より自主性を重視してきたという。

(インタビュー・構成=中林良輔[REAL SPORTS副編集長]、写真提供=FC市川GUNNERS)

子育てに有効な「サンドイッチ話法」の活用

サッカーパパ・ママが思い描く、わが子の理想の将来像とは果たしてどういったものだろう?

幸野健一さんの長男・幸野志有人選手はJFAアカデミー福島を経て、弱冠17歳にしてFC東京でプロサッカー選手としてデビュー。以降、大分トリニータを始め数々のJクラブを渡り歩き、Jリーグ通算130試合以上に出場。その後、2020年より海外移籍にも挑戦。また現役選手でありながら自身のアパレルブランドを立ち上げるなどデュアルキャリアでも注目を集めている。世のサッカー少年少女の親にとって、わが子もこう育ってくれたらと願う一つのモデルケースではないだろうか。では、その子育てに秘訣はあるのか? サッカー育成のカリスマが実践した子育てについて話を聞いた。


――幸野さんは子育てにおいて、何を一番大事にして志有人選手を育てられましたか?

幸野:子どもの頃から一人の大人として扱って、常に彼自身の考えを尊重していました。サッカー面においても否定的な発言はしないように意識し、よくある「なんであそこでシュート打たなかったんだ!」というような叱り方をしたことは一度もないです。そもそも試合後の親子の反省会なんてまったく必要ないんですよ。うまくいかなかったプレーは本人が一番よくわかっているので。親がわざわざ改めて指摘する必要なんてないんです。私はサッカーそのものが何万通りも正解がある競技だと思っていますし、志有人は小さい頃から本当にサッカーが好きで、早い段階から自分のサッカー観を持っていたので、それを頭から否定するようなことはしないように努めていました。

――何か直接アドバイスをしたくなった場合はどのように伝えるのですか?

幸野:何か伝えたいメッセージがあるときは、ビジネスの世界でよく使われている「サンドイッチ話法」で伝えていました。まず褒める、その後に私なりの伝えたいアドバイスを伝えて、最後にまた褒めて終わる。例えば、最初は試合や練習における頑張りや姿勢を評価して褒めていました。その上で「でも、あのとき首を左に振っていたら、左側にも味方選手がいて、また違った面白い展開になっていたかもしれないね」と伝えたいメッセージを伝えて、最後に「だけどお前のプレーはいつも本当に素晴らしいよ」という言い方をしていました。否定から入ると子どもはどうしても頭の中で反発から入ってしまうので。

今考えると少し無理をし過ぎていたのだと…

――大事なのは「子どもを子ども扱いせず、大人と同様に接すること」なのですね。

幸野:サッカーにおいても人生においても、自分の頭で考えること、そして自立することが大事ですから。それは私が父親から受け継いだやり方でもあって、私も「お前の好きにしろ」としか言われずに育ち、だからこそ責任を感じました。いま思うと、子どもの頃に親から言われた通りにやるほうが楽な場合もたくさんあるし、自由にやらせるというのは厳しい育て方でもあったのだなと思います。自分で考えて選んだ以上、失敗した責任も自分で取らなきゃいけないわけですから。

――例えば習い事も本人がやりたいものをやらせていたのですか?

幸野:はい。小さい頃は水泳もやりたいと言うので行かせていました。ただ水泳は級が上がってだんだん記録を求められるようになって、「つまらなくなった」と言ってやめました。やっぱり本人の「楽しい!」という思いが根底にないものは続かないですよね。志有人の場合はそれがサッカーでした。休みの日にも公園で友達とずっとボール蹴っているような子どもでした。

 けれど小学5〜6年生になって、東京トレセンとかナショナルトレセンに選ばれ始めるとかなり忙しくなってしまって……。もちろんそこでプレーすることも本人の意思ではあるのですが、サッカーが大好きな子どもにとってナショナルトレセンを断るという選択肢は絶対に選べませんよね。

――子どもたちにとって憧れの舞台です。

幸野:ただ、いま考えると少し無理をし過ぎていたのだと思います。その結果、オスグッド病(膝蓋骨下方の腫れと痛みを起こすスポーツ障害)やシーバー病(かかとの骨に痛みを起こすスポーツ障害)にもなりましたし、中学では腰椎分離症、プロになってからも前十字靭帯損傷という大きなケガを2回経験しています。「小さい頃からかなりやり込んできたツケが回った」というのは志有人本人も言っていましたし、私も親として何かもう少し別のアプローチやアドバイスができなかったかなと反省する部分がありますね。

――とはいえ個人レベルでどうこうできる問題ではなく、日本サッカー全体として考えなければいけない課題ですね。

幸野:日本サッカー全体で子どもたちのプレー時間の調節に共通の認識を持って、普段のクラブ活動レベルから変わっていかないといけない部分ですね。私もいま子どもたちの育成に関わっている身なので、この問題とは常に真剣に向き合い続けています。

12歳で単身南米に? 中学から親元を離れるという選択

――志有人選手は小学校卒業後、1期生としてJFAアカデミー福島に進みます。大切なわが子を12歳で親元から手放すという決断はなかなか難しいことのように感じます。この決断も本人の意思を尊重したということですか?

幸野:そうですね。小5ぐらいから「小学校を卒業したら家を出てプロになる近道を探したい」と本人がずっと話していたので。こちらも「別に構わないよ」と伝えていました。そんななか、志有人が小6のときにボカ・ジュニアーズが日本でセレクションを開催したんです。中高生が対象だったのですが、志有人と今年から大宮アルディージャでプレーしている矢島慎也選手の2人だけが小学生で参加が認められて。結局、その小学生2人が合格したんです。でも、2人ともアルゼンチンには行かなかった。矢島選手は浦和レッズジュニアユースに入りました。

――治安面を含めてさすがに心配な要素が多すぎるように感じます。

幸野:志有人本人は本気でボカの本拠地アルゼンチンに行きたがっていたんです。だけど妻が「さすがに12歳を単身で南米に行かせるわけにはいかない」と反対して。もちろん私も妻が反対する気持ちもわかるし、志有人も泣く泣く諦めたということがあったんです。今でもあのときアルゼンチンに行っていたらどうなっていたんだろうって想像することはありますね。

――でもご本人としては、一度は真剣に単身アルゼンチンに行こうとまで考えた後なので、JFAアカデミーのある福島に親元を離れて行くことがそれほど大きな障壁ではなかったわけですね。

幸野:単身で福島に行くことには全然悩んでいませんでした。他にもいくつかJクラブからの誘いもありましたが、ちょうどJFAアカデミーでの育成が始まった年で、その1期生として自分で道を開拓したいという思いも強かったのだと思います。

――幸野さんとしても当時、クレールフォンテーヌ(フランスのナショナルフットボール研究学院)の元校長であるクロード・デュソーさんがテクニカルアドバイザーに就任したJFAアカデミーであれば安心して任せられるとの思いだったのでしょうか?

幸野:クレールフォンテーヌの育成メソッドはよく理解していましたし、デュソーさんは人間性も含めて信頼している指導者だったので、私もそこでやることが一番いい選択だと考えていました。その後、2009年の(FIFA)U-17ワールドカップ出場後にFC東京からオファーがあって、16歳の高校1年生でプロになった。だから結局JFAアカデミーは途中卒校という形で最後まではいなかったのですが。

もがき苦しんだ経験は絶対に無駄にはならない

――わが子をプロサッカー選手に育て上げた一番の秘訣はなんでしょう?

幸野:12歳で家を出ているので、育て上げたといっても小学生以降はほとんど何もしていないんです(笑)。小学生の頃も、常に一人の大人として扱い、彼の発言にしっかりと耳を傾けて尊重することを心がけていたくらいです。あとはとにかく一緒にボールを蹴って、一緒にたくさん試合を見て、自分も全力でサッカーを楽しむ背中を見せてきました。

――親自身が楽しむ姿や一生懸命に何かに取り組む姿を子どもに見せることも大事ですよね。

幸野:とはいえ手取り足取りサッカーを教えたという記憶もないですし、公園で一緒にボールを蹴ったくらい。16歳でJリーガーになった後もシーズン中はほとんど会ってないですから(笑)。平日必死にトレーニングして、週末に飛行機、新幹線、バスで移動して試合して。Jリーガーの生活って大変ですよ、実際。

――プロデビュー後の志有人選手は2度の大きなケガの経験もありながら、10シーズンにわたってJリーグでプレーし、2020年には海外移籍にも挑戦するなどプロ選手として素晴らしいキャリアを築いています。

幸野:それでも例えば宇佐美貴史選手であったり、年代別代表で一緒にプレーしていた選手がバイエルンのようなビッグクラブでプレーしてワールドカップにも出場する姿を見て、本人としては悔しいと感じる部分もあるかもしれません。それでも前十字靭帯損傷などの大きなケガを経験しながら、焦らずしっかりと目の前の課題を一つ一つクリアして、息の長い選手としてキャリアを歩んできていると思います。現在は次にプレーする場をヨーロッパで探しています。

――2020年はオーストラリア2部リーグのシドニーオリンピックFCでプレーされていますが、英語圏でプレーするという考えもあるのですか?

幸野:すでにある程度英語は話せるのですが、将来のビジネスのためにもっと英語を完璧にしたいという思いはあるようです。もちろんサッカー選手としてベストなプレー環境が最優先ではありますが。いろいろな国に住んで、そこでサッカー選手としてプレーするというのは決して簡単なことではないですが、そこでもがき苦しんだ経験は絶対に無駄にはならない。そういう経験が人間力をつけるわけですし、20代とまだ年齢が若いからこそ吸収できるものもたくさんある。今は苦労するだけしたほうがいいと思っています。彼なりにいろいろ考えてやっているから、親としては頼もしく感じていますし、何も心配はしていません。

<了>







[PROFILE]
幸野健一(こうの・けんいち)
1961年9月25日生まれ、東京都出身。FC市川GUNNERS代表。市川SC GM。プレミアリーグU-11実行委員長。サッカーコンサルタント。育成を中心にサッカーに関わる課題解決をはかるサッカーコンサルタントとして活動し、各種サッカーメディアにおいても対談・コラム等を担当。2014年に千葉県市川市に設立されたアーセナルサッカースクール市川の代表に就任。2019年よりFC市川GUNNERSにチーム名が変更される。2020年に千葉県リーグに所属する市川SCとFC市川GUNNERSが業務提携し、市川SCのGMに就任。また、小学5年生が年間を通してプレーする日本最大の私設リーグ「プレミアリーグU−11」の実行委員長として、日本中にリーグ戦文化が根づく活動をライフワークとしている。