立石信雄オムロン元会長が逝去した。オムロン創設者の立石一真氏の次男。1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現オムロン株式会社)取締役。英語力を駆使して国際営業担当として同社の海外展開に尽力した。代表取締役会長。相談役などを歴任した。85歳。

財界活動も長く、経団連・国際労働委員長、海外事業活動関連協議会(CBCC)会長などを歴任。CBCCの事業の一環として中国など世界の有力大学や経済団体で「企業経営」や「市場経済の発展」などについて講演。同志社大名誉文化博士。北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めた。

◆「コーポレートガバナンス」を推進

東京証券取引所と金融庁が制定し、2015年6月から適用が始まった「コーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)」にも関わった。英米の証券取引所が社外取締役を求めるコードが策定され、経済協力開発機構(OECD)は1999年に「ガバナンス原則」を策定。日本から、当時オムロン会長だった立石信雄氏が世界6人の起草委員の1人として参加した。

経営論や経営哲学にも精通し、「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』を受賞した。日本経営近代化協会(SAM)をリードし名誉会長を務め、若い世代の経営論文コンテストを主催し助成した。

著書に『企業の作法 CSRが拓く企業の未来』(2006年)『市民と共存する経営 21世紀型企業への新視点』(1996年)がある。

青年時代にキリスト教会で賛美歌コーラス隊に参加したロマンチスト。芸術にも造詣があり、日本の藤原歌劇団はじめオペラ界の振興にも心血を注いだ。「AI(人工知能)では表せない人間の生の声をもっと生かすべきだ」というのが口癖だった。

筆者は1980年代半ばから財界担当記者として接して以来40年近く。取材などでの思い出は多い。まず経済同友会の論客として登場し、「少壮の財界人」と紹介したこともある。

◆父・立石一真氏を尊敬

2016年12月27日から2022年3月6日まで合計253本の珠玉のエッセーをメディアのレコードチャイナに寄稿、多くのメディアにも配信された。実際の体験に基づき、人類多様性と弱者支援の精神にあふれたものばかりで毎回反響を呼んだ。

父のオムロン創業者・立石一真氏(松下幸之助氏と並ぶ立志伝中の人)を尊敬し、度々思い出を綴った。

「技術先行型企業を目指した立石電機を、オートメーション機器から情報システムメーカー『オムロン』へと飛躍させた父・立石一真は、創業50周年を迎えた1983年の年頭、『大企業の仲間入りをした立石電機は、大企業病にかかっている。意識革命に徹し、創業の精神に還り、徹底的分権により中小企業的な組織と簡潔な制度で活性化を図ることこそ、五十周年にふさわしい大仕事である。全員でこれに挑戦してほしい』と指示した。これを受け立石電機では、全社あげて大企業病の一掃をテーマに、次なる半世紀への挑戦に向かった」

◆「大企業病を克服すべき」

「父は『大企業病』の名付け親となりこの語は日用語化した。大企業病克服のために『起業家精神の復活』の必要性を説いた。これはまさに現代に通じる経営名言だと思う。企業は自らの使命を再確認し、今後の事業の中核となるコアコンピタンスを再確立するとともに、それに向けて分権化、分社化、M&A(企業の合併・買収)などあらゆる戦略・手法を駆使して自らの企業構透の再構築を推進することである」



◆「最もよく人を幸福(しあわせ)にする人が最もよく幸福となる」

「一真はいつも『最もよく人を幸福(しあわせ)にする人が最もよく幸福となる』をモットーとして掲げ、実践していた」

「人間は誰でも幸福になる権利があるが、人を押しのけたり、足を引っ張ったりして自分だけ幸福になろうとしても、決して幸福にはなれない。人に幸せを与えることで、自分に幸せが戻ってくるものである。『企業は社会の公器である』との精神にのっとり、日本初の身体障害者福祉工場、「オムロン太陽」を1972年に設立した。『障害者が働きやすく、生活しやすく』をモットーに宿舎も設け、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住を接近させたのが、この工場の特徴である」

◆障がい者の社会復帰に一生を捧げた中村裕医師

「障がい者の社会復帰に生涯捧げ、1964年の東京パラリンピックを成功に導いたのが中村裕医師である。健常者の競技はアスリートの活躍が派手に伝えられ、アマ・プロを問わずコロナ禍でも大会が行われる。ところが、障がい者スポーツが大きな脚光を浴びるのは、4年に一度開かれるオリンピックの直後に開催されるパラリンピックにほぼ限られる。地味な存在だったパラリンピックに関する話題が今回の東京大会を前に、テレビや新聞・雑誌などで取り上げられ、競技種目やルールの理解も進んでいる。スポーツを通じて障がい者への理解が進むのはうれしいことである」



「1960年、整形外科医の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障がい者医療を学んだ。その時に出会った言葉が、その後の彼の人生の原動力になる。『失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ』。中村医師は1964年の東京オリンピックと同時開催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社会の常識という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも反対の声が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導いた。その後、障がい者自立のための施設を設立するなど、障がい者の社会復帰に尽力した」

「『太陽の家』は、大分県別府市、愛知県、京都府にある身体障害者が社会復帰するための訓練施設である。オムロンでは太陽の家の活動趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、太陽の家との合弁により、身体障がい者が働きやすい環境を整えた福祉工場、オムロン太陽(大分県別府市)とオムロン京都太陽を設立した」



◆京都をこよなく愛した

「京都で育った私は、京の町並みや風情に温かさを感じる。近代的な建物が増えたが、超高層ビルはほとんどない。山の緑や川面のせせらぎの中、広がる瓦屋根の民家の風景に、やすらぎを憶える。京都はお寺が多い。そのためか四季を愛でることがたやすくできる」

「コロナ禍が収束し、激減した内外の観光客が戻ることを切望したい。四季折々におりなす文化をいつまでも抱擁する京都であってほしいものである」

◆弟・立石義雄氏のコロナ急逝にショック

「2020年4月21日未明、弟の立石義雄(京都商工会議所会頭)が新型コロナウイルス感染症で亡くなった。私より3つ年下。これからも一緒に豊かな白秋期を歩もうと励まし合った直後の急逝で、大きなショックを受けた。立石電機・オムロントップとして奮闘中に急逝した長兄・孝雄、そして三男・義雄まで突然帰らぬ人となってしまったが、父・立石一真、そして生みの母と育ての母に、この会社の発展した姿を見せてあげたいと思う」

「弟の義雄が社長に就任した時、「兄さんの弔辞は読みませんよ」と私に語り掛けたことがあった。「何てこと言うんだ、おまえは」と笑いながら返すと、「長生きしてくださいね」と言った。義雄らしい憎まれ口だったが、優しさの裏返し表現だった。私が残されその通りになってしまった」

(八牧浩行)