帆を降ろしたヨットが停泊するヨットハーバーで、灰色の帽子と紫の背広を着た若者が、花束を持った両手を頭上に挙げている。若者の眼前に広がる海の向こうには、紅白の帆を揚げて航走するヨットがみえた。

 2011年1月に、2年4カ月勤めた法律事務所から独立し、「角田龍平の法律事務所」を旗揚げした。結婚したばかりの司法書士の妻と、大阪地裁に程近い大正建築のレトロビルで事務所を構えた。長らく不義理をしていた恩人に手紙を添えて開業の知らせを出すと、しばらくして事務所に一葉の絵葉書が届いた。

 ヨットハーバーに佇む若者が描かれた絵葉書には、真っ青な大海原に濃紺の文字がプカプカと浮かんでいた。「さあ大人になった 何になろう S.SHINSUKE」。

 1994年5月。17歳の私が、最初になろうとしたのは漫才師だった。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』の「オール巨人の漫才道場」の最終オーディションは、大阪の千日前にあったトリイホールで行われた。男子校の日常をデフォルメしたネタを披露すると、ボケる度に笑い待ちをしなければならないほど受けた。4分のネタをやり終えた頃には、オーディション通過を確信した。案の定、合格発表で巨人師匠から名前を呼ばれると、審査員の阪神師匠を抱き寄せ、その頬にキスした。生意気盛りだった私を自惚れさせたのは、後日の収録でオーディションのVTRをみた紳助師匠のコメントだった。

 「これはおもろい。元漫才師、漫才評論家として、僕は理論的に漫才したタイプですから。ダウンタウン初めてみた時と、さっきの洛星高校の子、レベルが非常に近い。あいつ絶対に大丈夫やわ」。3カ月後、ダウンタウンが12年前に優勝した「今宮こどもえびす新人漫才コンクール」で優勝すると、さらに有頂天になった。

 私を天狗にさせたのも、その鼻をへし折ったのも紳助師匠だった。高校を卒業すると、紳助師匠のアドバイスに従い、巨人師匠の弟子になった。阪神・巨人師匠の漫才を舞台袖で、紳助師匠のトークをスタジオでみているうちに自信を喪失した私は、漫才の舞台から敵前逃亡した。

 19歳の私が、次になろうとしたのは弁護士だった。今度こそ逃げられない敗者復活戦が始まった。9回目の受験で司法試験に合格するまで何度も諦めそうになった。そんな時は、「あいつ絶対に大丈夫やわ」と紳助師匠がいってくれた『人間マンダラ』のビデオテープを擦り切れるまでみた。

 31歳でようやく弁護士バッジをつけると、本業の傍らテレビやラジオにも出演するようになった。独立を機にどうしても感謝の気持ちを伝えたくて、紳助師匠に宛てた手紙を吉本興業に送ると、漫才を辞めてから15年も音沙汰のなかった私に絵葉書が届いた。

 「TVで何度か見たよ。変わらんよ昔と! 9年かかりましたか。その方が深くていいよ!! 〜中略〜 一度メシでもつき合えよ。アドレスまたFAXするわ 島田紳助」。

 その夏、紳助師匠は芸能界を引退した。送られてこないFAXを待ち続けて、9年が過ぎた。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平