日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年3月の特集は、岡林信康特集。第3週は、日本コロンビア時代からビクター時代の岡林信康についての話を本人へのインタビューとともにお送りする。

復活の朝 / 岡林信康

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、岡林信康さんの「復活の朝」。2021年3月3日に発売の23年ぶりの新作アルバム『復活の朝』のタイトル曲。今日の前テーマ曲はこの曲です。

2021年3月の特集は「岡林信康」。1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。日本語のフォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在となった方です。彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」。1960年代終わりから1970年代にかけての激動の政治の時代を象徴する人ですが、本人の意識や意図とは別に祭り上げられてしまった面の方が大きかったかもしれません。1970年代の初め、岡林さんは東京を引き払って京都の山村に移住するんです。今も音楽活動と農作業を並行しております。1980年代には新しいポップスを目指し、1990年代には日本の伝統音楽と取り組んだ。まさに孤高の軌跡です。彼は何を求めて、何と戦って、どう自分自身であろうとしたのか? 今月は5週にわたって本人のインタビューを交えてお送りしようと思っています。

今週は第3回。1975年からです。CBSソニーで松本隆プロデュースのアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』の2枚を出して、その年にレコード会社を日本コロンビアに移籍した。なぜコロンビアだったのか? これには大きな理由があります。京都の農村に移住して畑仕事をやるようになり、日々の生活の中で音楽の好みが変わって演歌に惹かれ始めた。その頃に美空ひばりさんとの運命的な出会いを果たし、演歌をやるのなら、ひばりさんと同じコロンビアがいいということで移籍するんです。そしてこれは、はっぴいえんど時代からの盟友の松本隆さんには言えなかった、というのが先週までの話です。

今日は、このコロンビア時代のアルバム『うつし絵』、『ラブソングス』、『セレナーデ』そしてビクターに移籍して『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『GRAFFITI』をリリースしており、その中からお聞きいただこうと思います。まずは演歌アルバム『うつし絵』から、美空ひばりさんもシングルにした「月の夜汽車」をお聴きください。曲の後は岡林さんのインタビューです。



(インタビュー)

岡林信康(以下、岡林):村の生活の中であれほど嫌いだった演歌が、なぜか心地よく聞こえるようになってきてね。何が俺に起こってるんだっていうのは分からなかったんだけど、三橋美智也や美空ひばりとか子供の頃によく聴いた演歌の色々なアルバムを聴いているうちに「月の夜汽車」という曲ができて。それをイラストレーターの黒田征太郎に送っておいたら、彼の手から周りまわって美空ひばりさんに届いて、彼女が歌いたいと言って。それで自信を持ったんだね。

田家:そりゃ自信も持ちますよね。

岡林:それでバタバタと10曲ほどできて。ひばりさんが歌ってくれるのは嬉しいし、俺もアルバムを出そうと思ったんだけど、これは非難されるぞと思って(笑)。

田家:田舎暮らしの中で演歌が良いと思うようになっていった理由はあるんですか?

岡林:やっぱり花鳥風月というか、当時の演歌には自然の描写がよくあったのよ。山村での畑稲刈りの中で、春に花が咲いて、夏にそれが生い茂って、秋に枯れ葉になって、冬に死の静寂があるのが演歌なのな。自分のロックにはこういうのがなかったなと思って、そんなことから演歌に入っていったのかな。

田家:ボブ・ディランの歌にはこういう四季がないみたいな。

岡林:そうそう。たまたまあの頃に母親が胃癌で亡くなって。当時俺は29歳だから、母親を失くすにはちょっと若いんだよね。そういう人の死への儚さみたいなものもあったんちゃうんかな。それが四季の中で母親の死を受け止めて、より演歌的な心情になっていったんだね。

田家:アルバムの中には「橋〜”実録”仁義なき寄合い」という曲もありましたが、あれはあのままの話ですか?

岡林:村の寄り合いをそのまま歌にしたのよ。

田家:そういう寄り合いにも、村の住民として参加されていたという。

岡林:それは村の決まりだからね。毎月一回常会があるから、我が家の代表として僕も出席してました。あの橋は架け替えないと危ないから、とにかく綾部市の補助を引き出したいということで、歌の中にも出てくるツナちゃんがあのレコードを市の建設課に持っていって、この曲をかけながら交渉したの。こんな悲惨な歌ができるほどあの橋はひどいんだ。ほっといていいのか! って。地元に貢献したんだよ俺は(笑)。

田家:すごい話ですね(笑)。で、それまでの岡林さんのファンからはなんだこれは! と。

岡林:コロンビアにファンからの手紙が来て、岡林は右翼に転向したのかと訊かれたりね。演歌には右というイメージがあったんやろね。

(スタジオ)

田家:これはもう時代だったとしか言いようがないんですよね。この言葉で片付けてはいけないんでしょうけど、今の状況の中で当時の話を聞くと、なんでそうなるんだと思うことがたくさんありますが、これもその例ですね。レコード会社に彼はなんで演歌に転向したんだ、右翼になったのか、と手紙がきたというのもそんな例でしょう。ロックやフォークには反体制のイメージがありましたし、実際そういう曲も多かったです。若者音楽でしたし、自分の母親が亡くなったことを歌うようなロックバンドはなかったですよね。そして、岡林さんは田舎に篭って花鳥風月と共に暮らして母親も亡くし、やっぱり演歌の方がしみじみするなということで演歌を歌ったことが明かされました。橋の話もありました。彼は京都の綾部市で、人が住まなくなった家を探して暮らしていましたが、そこで橋についての寄り合いが歌われた。その歌をお聞きください。曲の後は美空ひばりさんのインタビューです。



田家:ひばりさんはどういう方でしたか?

岡林:面白かった。泉谷(しげる)とひばりさんの家に行ってベロベロに酔っ払って「あんたたち泊まっていきなさいよ」って言われて。黒田征太郎も泊まるはずだったんだけど、帰らなければいけなくなって、それで俺と泉谷が泊まって寝てたら、ひばりさんが黒田征太郎の布団に入って「私ここで寝ちゃおう」みたいなね(笑)。泉谷しげると岡林信康と美空ひばりが川の字で寝ている光景は、おぞましいというか恐ろしいというか(笑)、そんなことがあったよ。

田家:歌い手としても傑出していた方だったわけでしょう。

岡林:それはもうね。あの人は別格であって、100年に1人じゃなくて200年に1人だな。それとあの人も歌謡界の女王と呼ばれたのは不幸やな。俺のフォークの神様と一緒で、あの人はジャズを歌わせても上手いしなんでもやれたのよね。だからもっと自由に色々なジャンルを歌わせてあげたかったな。

田家:中野サンプラザのステージで一緒に歌われていましたよね? 僕も会場で見てました。

岡林:あの時は俺のコンサートを観にくるだけの話だったのに、なぜかステージに登ってきて。一応挨拶だけして下りるつもりが、粘って一曲歌ってしまったやろ(笑)。

(スタジオ)

田家:美空ひばりさんはこんな人だったんですね。目黒にひばりさんが住んでいたお宅が、今はひばり御殿として記念館になってます。ファンの方も入れるんですが、そこに中庭があって。その中庭について、係の方のひばりさんと泉谷さんが相撲を取った場所です、という説明がありました。ひばりさんと泉谷さんと岡林さんが川の字になって寝た仲なんですね。黒田清太郎さんはイラストレーターの方ですね。ひばりさんが演歌の女王、歌謡曲の女王というのと、岡林さんのフォークの神様が一緒だというのは僕も同感です。以前、この番組でひばりさんの特集をしたときに彼女のジャズのアルバムを紹介して、彼女のバックバンドで演奏していたシャープス&フラッツの原信夫さんにインタビューしました。ひばりさんは演歌の女王にならざるを得ない時期があってレッテルを受け入れていったのでしょうが、岡林さんはフォークの神様に抗い続けた。そんな違いもありますね。

続いて、1977年のアルバム『ラブソングス』から娘さんの名前でもある「みのり」をお聞きください。インタビューは『ラブソングス』と私小説についてです。



田家:『うつし絵』の後に、演歌というよりも私小説ならぬ私音楽ともいえるアルバム『ラブソングス』を出されて。「Mr.Oのバラッド」でご自身の青春のことも歌い、娘のみのりさんと息子の大介さんのことも歌っている。今回のアルバム『復活の朝』のジャケットはみのりさんのお子さん、岡林さんのお孫さんがお描きになっているんですよね。そういうお子さんの歌を歌うことは、生活の中でそういう歌になっていったんですか?

岡林:松本(隆)くんが今回のアルバムを聴いて「岡林さんの日記を読んでいるようだ」って言ってくれていて。要するに俺の歌は創作じゃないんですよ。私小説、ドキュメンタリー、ノンフィクションというジャンルだから、実際になった体験やそこでの実感が何か拠り所になって歌が引き摺り出されているような感覚があって。あの頃はやっぱり子供らとの交わりも濃いものがあったから、そういう体験が歌になったと思うね。

田家:「みのり」にはおばあちゃんやお母さんのことも書かれていましたね。

岡林:あの頃はちょうど5年間いた山村を出て、今の場所に引っ越した直後だと思うのよね。生活環境も変わって、田舎だけど過疎の山村に比べたら大変便利な場所でもあるし。そういうときに、演歌とは違ったフォークや弾き語りの世界にフッといったんやろうね。

田家:今のお住まいは相当長いんですね。

岡林:もう45年超えたかな。

田家:東京の人間関係とは違う場所で、岡林さんは有名人でいらっしゃるわけでしょう。溶け込んでいったり、同じように生活するように時間がかかりませんでした?

岡林:俺のイメージはTVも出ないし、顔も覚えられてないし。本当に俺の歌に興味があって好きな人だけの岡林信康なのよ。だから俺は電車に乗ろうが、街を歩こうが声をかけられたことはない。今住んでいるところも、俺のことを全く知らない人ばっかりだから非常に気楽でね。茄子できたからあげるとか、大根とかキャベツ欲しいからってあげたり。いわゆるファンじゃないから、歌手の岡林信康を忘れられるということやな。

田家:そういう環境が欲しくて綾部に行った。という

岡林:そういうのもあるよな。俺を神様と呼ばない人、理想はあまり人がいないところを求めていたんだけど、それは無人島しかないからね(笑)。当時の村も今は高齢化してるし、誰も俺のことなんか知らんし本当に楽だった。今のところも楽ですよ。

(スタジオ)

田家:テレビに出ないアーティストもいるわけですが、なぜTVに出ないんですか? という答えが今の岡林さんの発言でしょうね。そんなに有名人扱いされるのは居心地が良くないとか、普通の人として暮らしたいというわけでTVに出ないんですね。岡林さんはフォークの神様と呼ばれない場所を求めて、山村に引っ越してしまった。松本隆さんは、今回のアルバム『復活の朝』にライナーノーツを4ページにわたって書いています。これがいい文章なんですよ。その中に「日記のような、私小説のような、デビュー当時から変わっていない岡林の世界」と書かれています。そして、「老年になってからの日常を記して生と死を表現するのは小説ではある。歌にはなかった」と書かれているんですね。今回のアルバムは、今年75歳になろうとする岡林さんの身の回りの出来事が歌になっております。今回のアルバムジャケットは、岡林さんのお孫さんが描いたんですね。「みのり」にもおばあちゃんという言葉が出てきましたが、それは岡林さんのお母さんのことでもあります。アルバム『ラブソングスで演歌からフォークに戻ってきたんですが、コロンビアからはもう一枚アルバム『セレナーデ』を出しています。これはポップスアルバムなんです。その中から「メイキャップお嬢さん」を聴いていただきます。そして、インタビューを挟んで、ビクターでの1枚目のアルバム『街はステキなカーニバル』から「Good-bye My Darlin」をお聴きください。



(インタビュー)

岡林:演歌をやったことで俺の中にはタブーがなくなったよね。弾き語りもやるし、アメリカン・ポップスだってラジオにかじりついて聴いてたんだから、その影響を受けてないわけはない。そういうことをやるには、フォークの神様というレッテルをぶっ壊したいというのもあったと思うよ。俺をフォークの神様だと思っている人が眉を潜めるようなことを敢えてやろうという意地悪な気持ちもあったりして。長い間、自分はフォークの神様というレッテルを貼られ、フォークという狭いところに押し込められたことを自分の悲劇だと思ってたけど、逆だと思うんよね。フォークの神様というレッテルをぶっ壊してやろうと思って、色々なことをやれたし、それが原動力だったかも分からんから。ここまで前向きにやってこれたのは、フォークの神様って言われてたからかも分からんよな。今は感謝して喜んでますけどね。当時は必死でぶっ壊してやろうと思ってるから、ちょっと力入ってるね。

Good-bye My Darling / 岡林信康

(スタジオ)

田家:「メイキャップお嬢さん」はコロンビアの3枚目のアルバム『セレナーデ』、「Good-bye My Darling」は1979年の『街はステキなカーニバル』に入っていました。この曲は当時好きだった記憶がありますね。もし岡林さんがフォークの神様と呼ばれていなかったとしたら、この2曲はいいポップスとして皆に聞かれたと思うのですが、フォークの神様がこれをやったわけですから、聴いた人は「岡林どうしたんだ?」と思うでしょうね。何をやってもどうしたんだと言われてしまうポジションにいたということの表れですね。そして、フォークの神様ということについて、こういう風に思えるというのが年齢でもあり、時代の変化なんでしょうね。当時はブッ壊してやろうと思っていた。それが今思えば、そういう風に呼ばれたから次々と色々なことをやろうと原動力になっていた。フォークの神様と呼ばれてよかったと思うということに、僕は拍手をしたいと思って聞いておりました。

続いて、アルバム『街はステキなカーニバル』のタイトルのイメージをインタビューで伺っております。聴いていただく曲はこのアルバムから「山辺に向いて」です。

(インタビュー)

岡林:あの頃は頻繁に街に行ってたから。俺にとっては一回出た東京だけど、街とはなんなのかなって思って。でも街って必要だし、楽しいし面白いし。そういうところからのこのタイトルかな。

田家:このアルバムの中には「君に捧げるラブソング」とか「山辺に向いて」という名曲も入っていますが、あれは都会の歌じゃないですもんね。

岡林:田舎にいながら都会も肯定するというか。その前は都会を否定して山村に行ったんだけど、両方とも人間にとって大事というかね。ベースになるものは田舎だし俺は東京に住む気はないけど、都会は祭りだと思うんよね。本来2,3日で開催する祭りを延々と頑張ってやってくれるから、時々覗きに行って刺激を受けて楽しむというか。アルバムの基本になってるのは「山辺に向いて」とかああいう世界だけど、たまに行ってダンスするにはいい相手だと思って。



(スタジオ)

田家:この曲は大阪や東京などの大都会で暮らしていたら絶対に書けない曲でしょうね。自然の中で山を見ながら朝日や夕日を見たりすることで、自然と自分の中から生まれた曲です。『街はステキなカーニバル』には、街の歌と田舎の歌と両方ありました。岡林さんは京都の山の中から東京に遊びに行っては、東京という遊び場で楽しんでいたというアルバムですね。このアルバムには「ロックン・ロールしてるかい!?」という曲もあるんですよ。この頃、岡林さんはビクターに移って、事務所もアミューズに入りました。アミューズはまだサザンオールスターズがブレイクする前でそんなに大きな事務所ではなかったんですが、そこでこういうアルバムを作りました。結果的には、推して知るべしで彼はそこを離れることになるんですが(笑)。1980年にもう一枚ビクターからアルバム『ストーム』が出たのですが、これは加藤和彦さんがプロデュースして、演奏がムーンライダーズなんですよ。このアルバムは今聴くといい作品ですね。そして、岡林さんはロンドンに行ったりもしている。彼が一番行動的だった時期の作品ですね。次のインタビューは加藤和彦さんについて訊いております。曲は「DORAKU LADY」です。

(インタビュー)

岡林:加藤和彦に出会って、ロンドン辺りに行って向こうの音楽事情とか知ったほうがいいよ、面白いよって言われて。

田家:加藤和彦さんとはどうやって知り合ったんですか?

岡林:テクノが当時流行っていて。彼はテクノやってたけど、俺はテクノのこと分からんから加藤に訊くしかないなと思って俺から電話したと思う。俺もテクノっぽいアルバム作りたいんだけど助けてくれよって言って。「ほんまにテクノやるんか」って言われた気もするけど(笑)。それからロンドン行ってこいとも言われて。

田家:ロンドンはいかがでした?

岡林:面白かったよ。俺もそんな人の歌を聴くのに熱心じゃないから、洋楽はあまり知らないのよね。ボブ・ディランとザ・バンドばかり聴いてたんで、そういう音の世界しか知らなかったのに、ロンドンは色々なものが溢れてたな。小さいライブハウスに行ったり、色々見たり聞いたりして。なぜかロンドンで細野(晴臣)に出会ったりしてね。プラスティックスという日本のバンドがライブハウスでやるっていうから行ったら、細野がいて。ミカ(サディスティック・ミカ・バンド)もいたよ、ミカもロンドン住んでてな。連絡くれて一緒に飯食って面白かった。

田家:ロンドンは楽しめたんですね。

岡林:楽しかったよ、その後はニューヨーク行ってね。最初にニューヨークに2週間くらいいて、その後ロンドンに1週間くらいいて、最後ニューヨークに帰って日本に戻って。

田家:このアルバム『ストーム』は、今聴くと一番いい時期のムーンライダーズが演奏していて、いいアルバムですね。

岡林:ムーンライダーズ最高やろ?

Doraku Lady / 岡林信康

岡林:ロンドン行ったりニューヨーク行ったり、その果てにアルバムも出し尽くしたようなところもあって。子供の頃、自分の家は牧師の家庭ですから賛美歌がメインになって、聴くのは洋楽ばかりで。うちの親も東映のチャンバラ映画を見に行くといい顔しないけど、外映に行くというと映画代くれるような妙な家庭だったんですよ。通ってる学校も田舎のミッションスクールだったり、洋楽一辺倒の環境だったんだけど、ある時に近くで盆踊りがあったんだよね。小学校の3年生の時か。その時に初めて盆踊りを踊って……。

田家:この話は東芝EMI時代の1枚目のアルバム『ベア・ナックル・ミュージック』でも歌になってますね。この続きは来週伺いましょうか。

(インタビュー)

田家:アルバム『ストーム』は加藤和彦プロデュース、演奏はムーンライダーズでした。ムーンライダーズらしいでしょう? ロンドンとニューヨークを往復してアルバムを作っていた。1981年のアルバム『GRAFFITI』では、「マンハッタン」という歌もあります。6年間で6枚のアルバムを作って、それぞれの色が全然違うというのが、岡林さんの好奇心と集中力で、それぞれやったことがないことを突き詰めながらアルバムを作っていたことがよくわかりますね。その中で、自分は一体何者か? 本当にこれで良いのかと思い始めるんですね。岡林さんが加藤さんにテクノをやりたいと言った時に「お前がテクノやるのか」と言ったという場面は想像がつきますね。そういう風に岡林さんは前へ前へと進んでいた中で、また立ち止まってしまった。そんな時に自分の中に出てきたのが盆踊りだったんですね。キリスト教の牧師の息子で賛美歌で育ち、洋画ばかり見てきて東映の時代劇は見せてもらえなかった子供時代がふっと出てきた。そこで彼はどうしたか? これは来週の話になります。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」岡林信康特集Part3。今週はコロンビア・ビクター編、1975年のアルバム『うつし絵』から、1981年のアルバム『GRAFFITI』までの時代をたどってみました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

わずか6年で発売したアルバムは6枚、演歌からポップス、洋楽、ニューウェーブと、いずれもフォークの神様のレッテルから逃れたい、ぶっ壊したいということが原動力になって、フォークじゃない音楽に真正面から向かっていった。でも、ファンの反応は芳しくなかったという時代です。改めて岡林さんの特集をしていて思い出す言葉があるのですが、1960年代の終わりから1970年代に「自己否定」という言葉がしきりと使われたんですね。今の自分を否定して新しい自分になっていく、岡林さんのこの頃の活動はまさに自己否定でしたね。そして、もし、フォークの神様という言葉に安住するような人だったらこんな音楽はやっていなかったでしょうし、今の岡林さんもないと思うんです。そこから逃れようとし続けたから、岡林信康は岡林信康として今回のアルバム『復活の朝』のようなすべてを濾過した透明で素直なアルバムができたんだと思います。よくファンがアーティストを作るという言い方をします。神格化するのも否定するのもファンですが、その両方がいたから岡林信康は岡林信康として今を迎えているのではないか。こういうファンとアーティストの関係があるんだな、と思いました。今回のアルバムは色々な時代のファンを納得させる、初めてのアルバムと言ってもいいかもしれません。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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<リリース情報>



岡林信康
アルバム『復活の朝』

発売日:2021年3月3日(水)
価格:3000円(税抜)
=収録曲=
1. 復活の朝
2. 蝉しぐれ今は消え
3. コロナで会えなくなってから
4. 恋と愛のセレナーデ
5. お坊ちゃまブルース
6. アドルフ
7. BAD JOKE
8. 冬色の調べ
9. 友よ、この旅を