80年代のジャズ・ダンスのムーブメントから、90年代のアシッド・ジャズを経て、現在も世界で最も大きな影響力を持つDJであり続けているジャイルス・ピーターソン。彼は90年代、自身のレーベル「トーキン・ラウド」からデビューさせたインコグニートを率いるブルーイと、コロナ禍に突如、STR4TA(ストラータ)というプロジェクトを立ち上げ、1stアルバム『Aspects』を先ごろリリースした。

【プレイリスト】柳樂光隆が本記事のために選曲「Another History of British Music 1970-90」

同作はジャイルスが若き日に熱中した80年代のイギリスのムーブメント「ブリット・ファンク」を蘇らせたサウンドにも驚いたが、もう一つ気になったのはジャイルスが自宅でDJをして、それを海賊ラジオで放送する様子をもとにしたアートワークだった。

ちなみに、STR4TAがアルバムに先駆けて発表した12インチのシングル・レコードは、白いラベルに「STR4-TA」と書いた黒いスタンプが押してあるだけのホワイトレーベル(ジャケットにもレコードの真ん中のラベルにも印刷のないレコード。プロモ盤や海賊盤でよく見られる)を採用していた。そこには、このプロジェクトのコンセプトとともに、ジャイルスのブリット・ファンクとの思い出も反映されている。



ジャイルスはSTR4TAで思い入れが強いブリット・ファンクをただ蘇らせ、話題にしようと企んでいるだけでなく、同ムーブメントの音楽史における歴史的な意味を再考させることまで視野に入れている。そのことはアルバムのリリース後の発言からも明らかだし、なによりも作品そのものにただならぬ熱意が宿っていた。そして、それは今がベストなタイミングでもあることもなんとなく伝わっていた。この2年間にジャイルスが自身のラジオ局Worldwide FMで、二度もブリット・ファンク特集を組んでいることからもその熱量はうかがえる。

ブリット・ファンクに関しては、いざ調べようと思っても日本語の資料が簡単には手に入らない。DJ/ジャーナリストのスノウボーイが執筆した『From Jazz Funk & Fusion to Acid Jazz: The History of the UK Jazz Dance Scene』というイギリスのクラブ・シーンをリサーチした2009年の名著でも、ジャズ・ダンスやアシッド・ジャズについて触れられてはいるが、ブリット・ファンクに関しては多少名前が出てくる程度でほとんど記載がない。ソウル・ジャズ・レコーズによる『British Hustle』、デヴィッド・リー(旧ジョーイ・ネグロ)による『Back Street Brit Funk』といったコンピレーションもあるにはあったが、資料としては十分ではなかった。


筆者の私物(Photo by Mitsutaka Nagira)

僕はこのインタビューを通じて、歴史のエアポケットのようなものを、ジャイルスの証言によって埋めてもらうような記事を作ろうと考えた。ブリット・ファンクがイギリスの音楽史においてどんな役割を果たしたのか。若き日のジャイルスが、当時の現場でどんなことを体験してきたのか。なぜ海賊ラジオなのか、なぜスタンプを押しただけのレコードだったのか。そこにはすべて意味がある。

そして、ジャイルスの証言からはイギリスの音楽史、特に70年代〜90年代におけるミッシングリンクがはっきりと浮かび上がってきた。ブリット・ファンクについて知ることは、イギリスの音楽史をジャズやファンクの視点から見直すことであり、ジャズ・ダンスやアシッド・ジャズ、グラウンドビートなどをより深く知ることであり、かの国における人種問題と、それが音楽に与えた影響について考えることと同義でもあったのだ。

同時期に録ったブルーイのインタビューと併せて読めば、STR4TAがどれだけの射程をもったプロジェクトなのかがわかるだろう。これは単なる懐古主義のリバイバルではないのだ。

アンダーグラウンド発信による最初のムーブメント

―まずはあなたがブリット・ファンクに出会った頃のことを聞かせてください。

ジャイルス:少年時代はサウスロンドンに住んでいて、その後、自分が扱うことになる音楽に出会えたのは海賊ラジオ放送のおかげだと言えるね。国営放送だと僕が好きな音楽が聴ける番組が2本しかなくて、1つがBBC Radio 1の「The Robbie Vincent Show」(※1)、もう1つはCapital Radioのグレッグ・エドワース(※2)の番組だった。

※1:ロビー・ヴィンセントは70年代後半のイギリスにおけるソウル、ファンク、ジャズの最重要ラジオDJ。
※2:イギリスのソウル、ファンク系ラジオDJのパイオニアの一人。Capital Radioで1974年から14年間続けた「Soul Spectrum」は大きな影響力があった。

当時の同級生はみんな、ロックやポップ、それからニューウェイブ、一部の子はパンクを聴いていた。そんななかで、僕が13歳か14歳の時に、友だちのお姉さんがボビー・コールドウェルとか、キャメオ、アース・ウインド&ファイアーのレコードを持っていたんだ。それをきっかけに、音楽の神秘みたいなものにハマっていった。でも、当時ブリット・ファンクやジャズ・ファンク、ディスコをかけているラジオは非常にアンダーグラウンドなものだった。僕は海賊放送を聴いていくうちに、ライト・オブ・ザ・ワールドやハイテンションといった、アメリカの音楽をやっているイギリスのバンドの存在を知っていったんだ。

―なるほど。

ジャイルス:そして当時は気づかなかったけど、大人になって振り返ってみると、ブリット・ファンクはDJとライブのシーンが合わさっている最初のムーブメントだということに気づいたんだ。1978年以前にそういうムーブメントは存在しなかった。アヴェレイジ・ホワイト・バンドやゴンザレス、ザ・リアル・シング、サイマンデがいたにはいたけれど、彼らは「ライブ会場で演奏するバンド」以上の存在ではなかったんだ。それが1978年以降になって、バンドやDJたち、コミュニティがひとつのムーブメントに変わっていった。少年の頃はWeekender(週末のオールナイトイベント)に行って、一日中、DJもバンドも両方聴くことができた。最高だったよ。黒人も白人も、裕福な人もそうでない人も、一緒にイベントを楽しんでいた。当時のイギリスで、他にそんな場所はなかったよ。ブリット・ファンクがなかったら、今の僕はいなかった。

僕は少年のころから海賊放送やバンド、インディーレーベルを通して、この音楽が持つエネルギー、情熱、そしてコミュニティについて学んできたんだ。初めてターンテーブルを手にしたのは15歳か16歳の時。土曜日にスーパーマーケットのアルバイトで貯金して買ったんだ。それからレコード代を節約するために、レーベルに手紙を書いて、タダでレコードを送ってほしいと頼んでいたよ。その作戦が初めて成功したのはElite Records。彼らは僕にサンプルを送ってくれたんだ。そのホワイトレーベルには、サイドAにレベル42の「Sandstorm」、そしてサイドBにパワーラインの「Journey To...」が収録されていた。母親はいつも「なんであなたに無料でレコードが届くの?」って不思議がっていたけど、「だって僕はDJだから、みんな僕の番組で紹介してほしいのさ」って答えていたよ(笑)。そして16歳か17歳のころ、僕は裏庭で自分の海賊放送を始めた。その最初のゲストとして出演してくれたのがブルーイだったんだ。


パワーライン / レベル42「Journey To... / Sandstorm」のサンプル盤(画像はdiscogsより引用)

―ブリット・ファンクはどのようにしてムーブメントに発展していったのでしょうか?

ジャイルス:イギリスの音楽シーンは、ラジオだとBBCの「Radio 1」と商業放送局、メディアだと「NME」と「Melody Maker」、そして「Sounds」が権威をふるっていて、こうした団体の力がとても強かったんだ。そして、そのどれもがブリット・ファンクもブラック・ミュージックも扱っていなかった。だから、自分たちでムーブメントを作り出すしかなかったんだ。それはブリット・ファンクに限ったことではなくて、イギリスの音楽シーンでずっと起こり続けていたこと。だからイギリスの音楽シーンでは、2〜3年ごとに新しいムーブメントが生まれてきたんだ。ダンス・ミュージックはもちろん、ハウス、ジャングル、UKガレージ、グライム、ダブステップ、ドリルミュージックも、全部アンダーグラウンド発信で、海賊放送を使って広まってきたムーブメントだ。どれも自分たちのコミュニティのために、独自のプラットフォームを作っていた。そしてブリット・ファンクは、それをやった最初のムーブメントなんだ。独自の海賊放送を立ち上げ、イベントを開催し、「Black Echoes」や「Blues & Soul」といった雑誌も発行し、Caister Soul Weekender(※)やオールデイヤー(All-dayer:終日公演)のようなイベントもやっていた。

※1979年に始まったイギリスのソウル、ファンク系の老舗イベント。DJフォギー、クリス・ヒル、ロビー・ヴィンセントらがプレイした。

また、70年代のイギリスには、「Top of the Pops」という重要な音楽番組があったんだ。毎週木曜日に放送されていたチャート番組で、国民全員が見ていたぐらいの人気番組だった。チャートのトップ40から選ばれたアーティストがこの番組でパフォーマンスできたんだけど、僕が知っている限り、ブリット・ファンクを扱ったテレビ番組は「Top of the Pops」が初めてだ。ハイテンションとフリーズの楽曲がトップ40にランクインしたからね。なぜ彼らの音楽がチャート入りしたかというと、このムーブメントがそれだけ大きなものに成長したからなんだ。それは彼らの音楽がメジャーなラジオ番組で紹介されたからではない。アンダーグラウンドのシーンが、メジャーの力を借りなくてもチャート入りするほど、大きな力を持つようになったからなんだ。そして少年の僕は視聴者として「Top of the Pops」を見て、ハイテンションが「British Hustle」を演奏する姿を目にして「こんなに素晴らしい音楽があったのか!」と感動したんだ。あの時のことは、今でも覚えているよ。


「Top of the Pops」で「British Hustle」を演奏するハイテンション

―先ほどレベル42の名前が出ましたが、彼らは僕のなかでかなり売れたジャズ・ファンク、もしくはフュージョン系のバンドというイメージです。あなたがサンプル盤を手にした頃のレベル42はどんな感じだったんですか?

ジャイルス:当時はまだ、ただの新人バンドだったよ。(サンプル盤に収録されていた)「Sandstorm」が彼らの1stシングルで、インスト曲なんだけど、その曲をきっかけに僕は彼らを追うようになったんだ。彼らは「Sandstorm」をリリースしたあとにポリドールと契約した。メジャー・レーベルが新しい音楽を探し求めている時に発掘されたバンドで、たぶん(ブリット・ファンクで)メジャーと契約をしたのは彼らが最初だと思うよ。そして、「Love Meeting Love」や「Love Games」などをリリースして、Elite Records時代の楽曲も収録された1stアルバム『The Early Tapes』が発表されたんだ(1982年)。



ジャイルス:ちなみにEliteは『The Early Tapes』のホワイトレーベルを4枚制作していて、それは表には出回らなかったんだけど、最近僕の友人がDiscogsで11000ポンド(日本円で約170万円)の値が付けられているのを見つけたらしい(笑)。

―それはすごい!

ジャイルス:話が逸れたけど(笑)、レベル42は僕にとって重要なバンドだ。当時は一番熱いファンだった。(日本語で)“イチバン“ファンだよ(笑)。ライブのあとは、楽屋の近くで出待ちをしていたぐらいだったからね。ベースのマーク・キングをはじめ、キーボードのマイク・リンダップや、フィリップ・グールド、そしてバンドに頻繁に参加する黒人ミュージシャンとして重要な役割を果たしていたウォリー・バダロウ(※)のサインをもらうためにね。レベル42はどんどん大きなバンドに成長していって、さながらデュラン・デュランみたいになっていった。僕にとっても、当時のムーブメントの中で重要な位置を占めているバンドだよ。

※70年代末からアイランド・レコードのコンパス・ポイント・スタジオのお抱えミュージシャンとして活動。グレイス・ジョーンズを始め、当時の先鋭的な作品に深く関与。それらはラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンにヘヴィープレイされた。自身の名盤『Echoes』(1984年)は、後世のハウスやトリップホップなどに大きな影響を与えている。

ジャイルスが憧れた「クールな多様性」

―イギリスにはノーザンソウルやモッズ、ジャズ・ダンス、ディスコなど、DJによる様々なカルチャーの歴史がありますよね。ブリット・ファンクはそういったDJの歴史に当てはめると、どういった文脈から発生したものと言えるのでしょうか?

ジャイルス:最初に君がスノウボーイの本(『From Jazz Funk & Fusion〜』)の名前を挙げていたと思うけど、あの本は主にジャズ・ダンスやそのシーンについて書いてあるのが面白いよね。でも、ジャズ・ダンスはブリット・ファンクに比べるとムーブメントとしてかなり小さいものなんだ。ブリット・ファンクは国全体に広がったし、クラブもイギリス中にあった。パンクスがスキンヘッドにしたり、ロカビリー・ファッションが再評価されたりしたのと同じように、ブリット・ファンクも重要なユニフォームのようなものだったんだ。そして、僕やスノウボーイはブリット・ファンク・アーミーの一員だった(※)。つまり、当時のイギリスのカルチャーの中で、非常に大きな位置を占めていたんだ。

※スノウボーイはアシッド・ジャズの時代に活躍した、アフロキューバン・ジャズのサウンドを象徴するパーカッション奏者/DJでもある。

だけど、悲しいことに歴史から忘れ去られてしまった。なぜなら、当時のメディアはセックス・ピストルズやファクトリーレコーズ、それから(ポストパンク期の)インディー・ミュージックについてばかり書いていたから。ブリット・ファンクが同じぐらい大きなムーブメントだったにもかかわらずね。カール・コックス(※1)やポール・オーケンフォールド(※2)、ピート・トング(※3)、ゴールディー(※4)などのイギリスのDJに話を聞いてみれば、口を揃えて「ブリット・ファンクが基礎になっている」と言うはずだよ。つまり、ブリット・ファンクがなければアシッド・ハウスも生まれなかったわけだ。

ブリット・ファンクは1978年、そしてアシッド・ハウスが1988年に現われた。ニッキー・ホロウェイ(※5)やピート・トング、ポール・オーケンフォールド、そして僕といったアシッド・ハウスのDJたちは、みんなブリット・ファンクのシーンから来たんだ。アシッド・ハウスは基本的に、ディスコとハウスにドラッグ文化がくっ付いているだけで、レゲエやサウンドシステムの延長線上にあるジャンルだからね。

※1:世界屈指のテクノDJ。代表曲「I Want You(Forever)」などのヒットでアシッドハウス時代に頭角を現した。
※2:アシッドハウスを代表するDJで、ハッピー・マンデーズのプロデュースを手がけるなど、インディ・ダンスにも多大な貢献を果たした。
※3:ロンドンで重要な役割を果たしたソウル・ミュージック系の海賊ラジオ局「ラジオ・インヴィクタ」を経て、90年代からはBBCでダンス・ミュージックを紹介している英ラジオ界の重鎮。
※4:90年代のUKドラムンベースにおける最重要人物。1995の名盤『TIMELESS』などで知られる。
※5:アシッドハウスを代表するDJ。クラブナイト・トリップ、シン、ミルク・バーといった重要なクラブの設立にも関わった。


1989年、アシッド・ハウスのレイヴで踊る若者たち。「クラブ」「ダンス」の文化もブリット・ファンクの延長線上にある。

―当時、ブリット・ファンクをどんな場所で体験していたのか聞かせてください。

ジャイルス:最初の頃は、バンドを見るためにライブハウスに行っていた。当時は16歳ぐらいで(ジャイルスは1964年生まれ)、クラブにはまだ入れなかったからね。ロンドンのヴィクトリアにあった、The Venueというライブハウスにはよく行ったよ。当時は郊外に住んでいたから、金曜日の夜に電車に乗ってヴィクトリアまで行って、The Venueで3、4組のバンドを見て、午後11時ぐらいの終電に乗って、家に帰り着くのは12時、みたいなことをよくやっていた。

ローカルなワインバーのイベントなんかにも足を運んでいて、そういう場所ではバリー・ストーン(※)などのDJや、あとはカール・コックスなんかもプレイしていたよ。それから、僕がよく行っていたのはオールデイヤーだね。ブリット・ファンクの王道で、ハドソン・ピープルの「Trip To Your Mind」という曲があるんだけど、15歳の時に(サウスロンドンの)パーリーにあるTiffany‘sというナイトクラブで開催されたオールデイヤーに遊びに行った時、彼らが出演していたんだ。そしたらライブの最後にステージからレコードを投げてね。それを僕がキャッチしたんだ。そのレコードはいまだに持っているよ。楽しかったな。

※80年代にJFM、Solorといったロンドンの海賊ラジオ局を中心に活動していたDJ。

この投稿をInstagramで見る Gilles Peterson(@gillespeterson)がシェアした投稿 15歳のジャイルスがキャッチした、ハドソン・ピープルの「Trip To Your Mind」のレコード(実物)



―会場はどんな雰囲気だったんですか?

ジャイルス:音楽を聴きに行く時はひとりで行っていたんだけど、いつも場違いな気がしていたのを覚えてるよ。周りの大人たちはカッコイイ服を着て、クールな友だち同士で遊びに来ていたから。そういう場所に来る人たちは、ダンスも上手かったしね。だから、僕はいつも一番後ろに隠れていた。後ろのほうからクールな世界を眺めていたんだ。心の中ではすごく興奮しながらね。

それから、黒人と白人が同じ場所にいるのを見たのはライブハウスが初めてだったんだ。異なるバックグラウンドを持つ人たちが、ひとつの場所に集まっていた。イギリスで黒人と白人の境界線をなくした音楽シーンは、ブリット・ファンクが初めてだったんじゃないかな。自然な形で多様性が生まれていたんだ。まだ大抵の場所では、社会的な背景が同じ者同士しか集まることはなくて、自分と違う人間が同じ場所にいることのない時代だったから。それがオールデイヤーでは覆された。人種も年齢も関係なかった。インド系も、アジア系も、黒人も白人もいた。そして、ほとんどが労働者階級だったね。育ちの良い、お金持ちの子はロックを聴いていたから。ブリット・ファンクは労働者階級の音楽で、多様性のあるシーンだったんだ。サッカーが労働者階級のスポーツで、ラグビーが金持ちのスポーツなのと同じだね。イギリスでは、私立に通っている子たちはラグビーをやるから。僕が初めてサッカーの試合を見に行った時は、「うわー……これは結構きついな」と思ってしまった(笑)。観客が生々しくてね。ブリット・ファンクもそんな感じだったよ。

黒人と白人の音楽文化が統合された初のムーブメント

―じゃあ、僕らが想像する“イギリスっぽいムーブメント“の要素を、ほとんど全部持っていたのがブリット・ファンクだったんですね。

ジャイルス:本当にそうだね。STR4TAのプロジェクトを始めて面白かったのが、「Guardian」や「Independent」、「Times」なんかの伝統あるメディアがこぞって興味を示してきたことなんだ。ブリット・ファンクは歴史としては短かったし、資料があまりないからね。ただ、インターネット以前のムーブメントだけど、幸いなことに当時のレコードはたくさん残っている。そして、最近はBack Lives Matterのこともあるし、物事のルーツについて興味を持つ人が増えているし、その対象のひとつにブリット・ファンクが含まれていると思うんだ。

この投稿をInstagramで見る Gilles Peterson(@gillespeterson)がシェアした投稿 ガーディアン誌によるブリット・ファンクの特集記事。STR4TAとジャイルスの働きかけによって、本国イギリスでも再評価が進み始めている。(画像はジャイルスのInstagramより)

ジャイルス:例えば、イギリスではカーニバル(※)や、レゲエのサウンドシステムのカルチャーについて話す人が増えてきた。その二つは「イギリスっぽさ」を語る上で重要だよね。ただ、レゲエのカルチャーはバーミンガム、マンチェスター、ロンドン、ブリストルあたりのカリビアン・コミュニティだけのもので、完全なる黒人文化だったけど、ブリット・ファンクにはもっと多様性があった。黒人音楽と白人音楽が統合されたムーブメントだからね。それが“イギリスっぽさ“にもつながっている。だから面白いんだよ。レゲエの場合、彼らはイギリスにいながら“カリビアンっぽさ“を大事にしてきた。レベル42はほとんどが白人のグループだけど、フリーズは白人のバンドに黒人のシンガーがいるし、ハイテンションやライト・オブ・ザ・ワールドは全員が黒人、アトモスフィアやインコグニートは白人と黒人のミクスチャー。それが意図的ではなくて、自然とそうなっているのが面白いよね。当時の僕はそれを見て、「人種の関係なく踊れるものなんだ!」と思ったんだよ。

※毎年8月にロンドンのノッティングヒル・エリアで開催される世界最大のストリート・フェスのひとつ「ノッティングヒル・カーニバル」が有名。西インド諸島からの移民のカリビアンのコミュニティによるイベントで、レゲエ、カリプソ、ソカ、ジャングルなどが流れる。


「Top of the Pops」で演奏するフリーズ

―そこまでユニークだったブリット・ファンクが、これまで振り返られる機会がほとんどなかった理由がさっぱりわかりません。1981年の時点でブリット・ファンクのコンピ『Slipstream - The Best Of British Jazz-Funk』が出ていたように、リアルタイムでも盛り上がっていたはずなのに。

ジャイルス:ある意味、ブリット・ファンクは僕たちだけの秘密だったんだね。それが今、こうやって語られるようになってうれしいんだ。このムーブメントが興味深くて、社会的意義があるものとして気づかれたということだから。ブリット・ファンクは僕たちの旅の一部でありながら、充分に語られてこなかった。だから僕はSTR4TAを通してシグナルを発信することで、僕たちがリアルな物語を語る様子を見せていきたいんだ。

そして僕は、ブルーイがとても重要な文化人だと思っている。40年間も続いてきたインコグニートを率いるだけでなく、フリーズ、ライト・オブ・ザ・ワールドで活動してきた人物なんだから。若い世代の黒人やミックスのミュージシャンたちに、多大な影響を及ぼしているはずだよ。エリザベス女王は、彼にナイトの称号を与えるべきだと思う。ポール・マッカートニーが授与されたのに、ブルーイが授与されていないのはおかしいよ。あんなにも文化に貢献しているのに、過小評価されている。例えば最近だと、(グライムのラッパー)ストームジーが重要な黒人アーティストのアイコンとして挙げられるけど、その背景にはブルーイがいる。だから僕は、ブルーイと彼の世代のミュージシャンたちを賞賛するためにここにいるんだ。

ブリット・ファンクとジャズ・ダンスの繋がり

―ジャズ・ダンスのカルチャーではDJやバンドだけでなく、Jazz DefeckorsやI.D.J.(※1)、Brothers in Jazzといったダンサーのクルーが重要な役割を果たしました。ブリット・ファンクではどんなダンサーが踊っていたんですか?

ジャイルス:まず、ブリット・ファンクとジャズ・ファンクの繋がりを語る上で重要なクラブというのがあって、それがロンドンにあったクラッカーズ(Crackers)なんだ。クラッカーズにはトレヴァー・シャークス(※2)やポール・アンダーソン(※3)、ジョージ・パワー(※4)なんかがいた。彼らはディスコとアメリカン・ファンク、そしてブギーに少しのジャズをミックスしていた。ジャズ・ファンクやディスコ・ジャズのような感じでね。I.D.J.のダンサー、ジェリー・バリーはクラッカーズの顔だったよ。つまり、ジャズ・ダンスのシーンの一部として枝分かれしていく前は、ブリット・ファンクはクラッカーズの文化の一部だったんだ。

※1:80年代のジャズ・ダンスのムーブメントを代表するダンス・チーム。名前は「I Dance Jazz」の略。
※2:Trevor Shakes 70年代後半にロンドンのウエストエンド地区で活動していた伝説的なダンサー
※3:Paul Anderson クラッカーズを代表するダンサー。70年代末以降、当時白人ばかりだったシーンで黒人DJの先駆者として活躍した。
※4:George Power クラッカーを代表するDJ。選曲はソウルやジャズ・ファンクなど。黒人へ場を開放し、反人種差別的方針で知られる。
参照:https://daily.redbullmusicacademy.com/2013/03/nightclubbing-crackers


I.D.J.がジャズダンスを披露、演奏はコートニー・パイン。

―なるほど。

ジャイルス:そして、ジャズ・ダンスを語る上で重要なクラブは、ポール・マーフィー(※1)がプレイしていたロンドンのElectric Ballroomと、トッテナム・コート・ロードにあったHorseshoeだ。僕が初めてタニア・マリア(※2)を見たのはHorseshoeだったよ。ジェイ・ホガード(※3)も、ヒース・ブラザース(※4)もいたね。Electric BallroomとHorseshoeでは、ポール・マーフィーが「Jazz Room」を立ち上げたのも大きかった。ポール・マーフィーはロンドンのジャズ・ダンス・シーンにおける最重要人物。ジャズ・ファンクとジャズ・ダンスの繋がりを理解する上で避けては通れない存在だ。

※1:Paul Murphy ジャズ・ダンス・ムーブメントにおけるジャズDJのパイオニア。80年代初頭に伝説的なイベント「Jazz Room」を開催し、そこからジャイルス・ピーターソンら多数のDJを輩出した 。
※2:Tania Maria ブラジル人のジャズ/フュージョン系のヴォーカリスト/ピアニスト。イギリスのクラブシーンに多大な影響を与えた。代表曲「Come With Me」。
※3:Jay Hoggard アメリカ人のジャズ・ヴィブラフォン奏者。イギリスのクラブシーンで「Ojala」が人気だった。
※4:Heath Brothers アメリカのスピリチュアルジャズ系グループ。ストラタ・イーストからリリースした『Marchin‘ On』(1975年)はクラブシーンの人気盤。


BBCの番組「Whistle Test」で紹介された、ポール・マーフィーのイベント「Jazz Room」の様子。I.D.J.も登場(3:45〜あたり)。

ジョン・ライドンやシャーデーも影響下にある

―イギリスのファンクといえば、「Boogie Nights」で知られるヒートウェイヴのように、アメリカでもヒットするグループがいました。こういったグループはブリット・ファンクのムーブメントとは関係があったのでしょうか?

ジャイルス:ヒートウェイヴは僕も大好きだ。ただ、彼らはブリット・ファンクのムーブメントの一部とは言いづらいかもしれない。なぜなら彼らはドイツに派遣されたアメリカ軍人のバンドだったんだ。もちろんロッド・テンパートンのように、イギリス人のメンバーもいたけどね。彼は最も優れたソングライターのうちの1人で、マイケル・ジャクソン(「Rock With You」「Thriller」)やルーファス&チャカ・カーン(「Live in Me」)にも曲を書いていた。僕にとってヒートウェイヴは、アヴェレイジ・ホワイト・バンドのような位置付けと言えるかな。素晴らしい曲を残した偉大なバンドで、アメリカの影響を受けた音楽を作っているけど、本質的にはヨーロッパのバンドなんだ。

ブリット・ファンクはもう少しパンクな感じで、「ブラス・コンストラクションみたいな音楽が作りたい」みたいなテンションなんだけど、結果的に粗くて洗練されていない音楽ができてしまったみたいな感じなんだよね。僕はそっちの方が好きなんだ。滑らかさに欠けていて、リアルだからね。STR4TAでも技術的に洗練された音楽を作るのではなくて、DIYっぽくて、直感に従う音楽を作りたかった。巧いミュージシャンはたくさんいるけど、間違いがあってもそれをそのまま残すぐらいな感じやりたかったんだ。




―ちなみにブリット・ファンクは、ヘアカット100やスパンダー・バレエ、ワム!など、ロックやポップス、ニューウェイブにも影響を与えたんですよね。

ジャイルス:その通り。今挙げてくれたグループはみんなブリット・ファンクから影響を受けている。ジョージ・マイケルはロンドンの西部ハーローにあった、Bogart‘sというブリット・ファンクをかけるクラブによく行っていたしね。スパンダー・バレエのケンプ兄弟は、ライト・オブ・ザ・ワールドのメンバーがやっていたベガー&カンパニーのライブを見に行っていた。レコーディングにも参加してもらったり、彼らから音楽を学んでいたんだよ。それから、スージー・アンド・ザ・バンシーズもそう。スージー・スーはいつもクラブにいたよ、彼女はジャズ・ファンク・ガールだったからね。セックス・ピストルズのジョン・ライドンもそうだし、みんなジャズ・ファンクのクラブにいたんだ。

ヘアカット100といえば、アイレベル(※)も素晴らしいグループだよ。ポップとジャズ・ファンク、ニューウェイブをミックスさせたような音楽で、その中にブリット・ファンクの要素もある。それから……シャーデーもそうだよね。1stアルバム『Diamond Life』(1984年)のインスト部分はブリット・ファンクだ。彼女もブリット・ファンク・ガールなんだよ。

※I-Level ニューウェイブのバンド。代表曲「Minefield」はイギリスのクラブでヒットし、アメリカでラリー・レヴァンにもプレイされた。




アメリカのDJからも愛されたブリット・ファンク

―ブリット・ファンクの中でもライト・オブ・ザ・ワールド(以下LOTW)は、シーンにとっても、あなたにとっても重要なバンドだと思います。このバンドについて教えてもらえますか?

ジャイルス:このムーブメントを語る上で、LOTWは避けては通れないグループだね。初期からその力を発揮していて、ハマースミス・オデオンの3000人のキャパシティをソールドアウトさせていた。運が良ければチケットを取れるというぐらいのグループだったんだ。それから、彼らはアメリカでレコーディングしたバンドのうちのひとつだね。「London Town」や「I‘m So Happy」が収録されている2ndアルバム『Round Trip』(1980年)は、サイド・エフェクトのオーギー・ジョンソンが制作したものだ。でも、個人的に好きなのは1stアルバムの『Light of the World』(1979年)で、他のアルバムよりも粗い感じが素晴らしい。彼らはイギリス版のアース・ウインド&ファイアーみたいなグループと言えるね。実際、そうなろうとしていたし。

それから、これはあまり知られていないことなんだけど、彼らのアルバムがアメリカでも売れたのはDJのおかげなんだ。ラリー・レヴァン(※1)はジュニア(※2)の「Mama Used to Say」や、イマジネーション(※3)をプレイしていた。彼らはある意味ブリット・ファンクだよね。

※1:70〜80年代にNYのクラブ「パラダイス・ガラージ」を拠点に活動していた伝説的なDJ。彼がプレイしていた曲は「ガラージ・クラシックス」と呼ばれる。
※2:Junior Giscombe アメリカで成功した最初のイギリス人R&Bシンガーのひとり。独立前の80年代にはブリット・ファンク・バンドのリンクスとともに活動していた。
※3:セントラル・ラインのエロル・ケネディが在籍したグループ。「Body Talk」(1981年)、「Just an Illusion」(1982年)が全英トップ5入りの大ヒットに。



ラリー・レヴァンがリミックスした、イマジネーション「Changes」(1982年)

ジャイルス:イマジネーションは、ラリー・レヴァンが出演したNYのイベントで演奏した唯一のイギリスのグループでもある。ハイ・テンションのデビッド・ジョセフによる「You Can‘t Hide(Your Love From Me)」や、タッチダウンの「Ease Your Mind」もアメリカで大ヒットした曲で、ラリー・レヴァンやフランソワ・Kがこれらのブリット・ファンク・チューンをプレイしていたんだ。イギリスのダンスフロアのカルチャーを追いかけるシーンが、アメリカのアンダーグラウンドに存在していたってことだね。パワーラインの「Double Journey」も、ムーディーマンがリミックスしたサン・パレスの「Rude Movements」(※)もそういった曲だと言える。そうやって、アメリカのDJによって有名になったブリット・ファンクのレコードというのが、80年代のものだけで10枚ぐらいある。これはとても興味深いことだと思うね。

※NYのクラブ・シーンにおけるレジェンド、デヴィッド・マンキューソのパーティー「the Loft」でのクラシックスだった。編集盤『the Loft』収録。





アシッド・ジャズ、新世代ジャズ、レゲエとの関係

―STR4TAの相棒ブルーイが結成したインコグニートは、80年代にブリット・ファンクのムーブメントから出てきて、90年代にはアシッド・ジャズの中心的な存在になりました。ブリット・ファンクをチェックしてから改めてブラン・ニュー・ヘヴィーズやジャミロクワイなどを聴いてみて、ブリット・ファンクから受け継いでいるものが確実にあるように感じました。アシッド・ジャズとブリット・ファンクの関係について聞かせてもらえますか?

ジャイルス:1978年から1982年までがブリット・ファンク黄金期だけど、それは1982年になってドラムマシンが使われ始めたから。そこで全てが変わったんだ。フリーズはアーサー・ベイカー(※)と「I.O.U.」を制作し、ハイ・テンションは「You Make Me Happy」でドラムマシンを使用した。そこでストリート・ソウルが生まれたんだ。ブリット・ファンク、レゲエ、ラヴァーズ・ロックをミックスしたものだね。

※アメリカのプロデューサー/DJ。アフリカ・バンバータ「Planet Rock」(1982年)でドラムマシン「TR-808」のサウンドを世に知らしめ、80年代初頭にリミックスという方法論を広めた。


フリーズ「I.O.U.」(1983年)、アーサー・ベイカーは作曲とプロデュースを担当。ジェイミーXXが2015年作『In Colour』収録の「Girl」でこの曲をサンプリングしている。

ジャイルス:そのあとヒップホップやエレクトロが出てきて、1988年頃になるとアシッド・ジャズが生まれた。ここでドラムマシンから離れて、再びオーガニックなサウンドに戻ったんだ。その時に出てきたのがブラン・ニュー・ヘヴィーズやジャミロクワイ、そしてガリアーノだね。

そして2016年、ユセフ・カマールが現われた。ユセフ・カマールはブリット・ファンクとアシッド・ジャズをミックスしているよね。こうした流れを見てみると、どこでどういうアーティストに影響が与えられてきたのかよくわかる。アルファ・ミストもジョー・アーモン・ジョーンズもロンドン・ジャズ、アシッド・ジャズ、ブロークン・ビーツの影響を受けている。エマ・ジーン・サックレイの新作がもうすぐ出るんだけど、ブロークン・ビーツやアシッド・ジャズ、それからNu Jazzな感じだったよ。最近、再びそういう音楽が出てきているのは面白い傾向だよね。




This weeks joyful vibrations. Thank you @kaidi_kat for your new record, it‘s amazing, thank you @gillespeterson for consistently playing Brit Funk on the radio, and thank you @HiatusKaiyote for making beautiful music. Updated every Monday. Join us. Peace.https://t.co/FIo6EROEI9 pic.twitter.com/9UeqlfbveB — Ezra Collective (@EzraCollective) April 5, 2021 エズラ・コレクティヴがジャイルスへの謝辞とともに、自身のプレイリストでブリット・ファンクを紹介。STR4TAは新世代UKジャズにも影響を与え始めている。

―今、レゲエやラヴァーズロックの話が出ましたが、ブリット・ファンクにもUKのジャマイカンやサウンドシステムのカルチャーの影響があると思います。UKのジャマイカンとブリット・ファンクの関係はどういう感じだったんですか?

ジャイルス:それはロンドンの中でも、場所によって答えが変わってくる話だね。ノースロンドンのトッテナムだと、サウンドシステムを中心にシーンが作られた。サウンドシステムとはつまりレゲエのカルチャーで、それこそLOTWはその影響を受けている。かたやウェストロンドンだと、ルート・ジャクソンと彼が率いていたグループのF.B.I.(※1)がいた。F.B.I.はブリット・ファンク以前のバンドだけど、ブリット・ファンクのコミュニティに属していた。そしてその流れで、のちに出てくるのがオマー(※2)だ。オマーの前の世代はたいていレゲエをやっていて、サウンドシステムがジャズ、ファンク、そしてレゲエのシーンを作っていた。そう考えると(ほぼ白人バンドである)レベル42とは異なる背景があるのがわかるよね。

※1:70年代のUKのファンク・バンド。名前は「Funky Band Inc.」の略。ダニー・ハサウェイやスティービー・ワンダーのカバー、ラテン・テイストの曲がレアグルーヴの文脈で再評価された。
※2:アシッド・ジャズ期にトーキン・ラウドからデビューしたシンガー。「There‘s Nothing Like This」などがヒット。




―80年代のイギリスには、ブリットファンクと隣接するような場所にルース・エンズみたいなグループもいましたよね。ルーズ・エンズのメンバーが90年代に入ってから、ソウル・II・ソウル(※)のキャロン・ウィーラーのソロ・アルバム『UK Blak』に参加していたのが個人的に気になっていました。

※DJジャジー・B、ワイルド・パンチ(マッシヴ・アタックの前身)のネリー・フーパー、キャロン・ウィーラーらのプロジェクト。「Keep On Movin‘」などで80年代半ばに大ヒット。彼らの音楽は「グラウンド・ビート」と呼ばれた。

ジャイルス:1982年にドラムマシンが登場したというさっきの話につながるんだけど、ブリット・ファンクからストリート・ソウルへの過渡期に重要な役割を果たしたのがルース・エンズだった。彼らは1stシングル「In The Sky」をリリースしたあと、「Hangin‘ on a String」で大ヒットを記録した。1982年までにフリーズ「Southern Freeez」、ライト・オブ・ザ・ワールド「London Town」、レベル42「Love Games」といった重要曲があるように、ストリート・ソウルが出現した時代で重要なのがルース・エンズの「Hangin‘ on a String」なんだ。

そして、その後にジャジー・Bによるソウル・II・ソウルの登場へと繋がっていく。ジャズ・ファンクからストリート・ソウルへ変化し、ソウル・II・ソウルの時代がやってきた。大きなクロスオーバーが起こり、アメリカで一大ムーヴメントを巻き起こした。ルース・エンズはある意味でブリット・ファンクとサウンドシステムから生まれたもので、ソウル・II・ソウルはルース・エンズの流れから生まれたんだ。(キャロン・ウィーラーの作品に関与している)カール・マッキントッシュのことを考えてもね。




ブリット・ファンクと関係していた日本のジャズ

―ブリット・ファンクの中にはジャズやフュージョンの要素もある曲があると思いますが、そういった曲はクラブでどういったレコードと一緒にプレイされていたのでしょうか?

ジャイルス:実は5〜6年前、ブルーイに日本で一緒にアルバムを作ろうと誘ったことがあったんだ。70〜80年代の、日本のジャズ・ファンクやフュージョンを賞賛するためのアルバムを作りたくてね。なぜかというと、イギリスでブリット・ファンクが流行っていた頃、クラブ・シーンでは日本のジャズがかなりプレイされていたんだ。

この投稿をInstagramで見る Gilles Peterson(@gillespeterson)がシェアした投稿 ジャイルスが所有する和ジャズのレコードコレクション

ジャイルス:World Wide FMの僕の番組でも「Japanese Jazz 20」というのをやったんだけど、福村博(※1)や向井滋春(※2)、日野皓正(※3)なんかもピックアップして、ピュアなジャズとフュージョンをかけ合わせたプログラムにしたんだ。イギリスのクラブでは、日本のジャズの輸入盤がかけられていて、沢井原兒&ベーコン・エッグ『スキップ・ジャック』(※4)や、土岐英史とサンバ・フレンズ『ブラジル』(※5)、それからパシフィック・ジャム『パシフィック・ジャム』(※6)のような作品が人気だった。日本のレコードはイギリスではレアだったから、それを持っているというだけで特別なDJ扱いされたんだよ。毎月たった100枚ずつぐらい輸入されて、ロンドンのレコードショップに並ぶんだけど、ものすごく高かったね。でも、パッケージも綺麗だし、ワオ!って感じだった。

※1:トロンボーン奏者。向井滋春との2管クインテットなどで知られる。
※2:トロンボーン奏者。ブラジル音楽にも取り組んだ『Hip Cruiser』がDJから人気が高い。
※3:イギリスでは『Double Rainbow』『Hip Seagull』『City Connection』が人気。特に『Double Rainbow』収録の「Merry Go Round」は聖典的名曲とされている。
※4:金子マリ参加のジャズ・ファンク〜フュージョン系アルバム。
※5:松岡直也、和田アキラらが参加したブラジリアン・フュージョン・アルバム。サックス奏者の土岐英史は山下達郎のバッキング・メンバーとしても有名。
※6:松岡直也と土岐英史がデビッド・T・ウォーカーやフローラ・プリムらとLA録音で作ったフュージョン・アルバム。ピアニストの松岡直也は門あさ美のプロデュースに携わり、永井博が自作のジャケットを手掛けるなどシティポップ方面でも知られる。




ジャイルス:イギリスのDJは、A.B.‘s(※1)の『Déjà vu』や、阿川泰子の「L.A. Night」(※2)のレコードをかけていたよ。「L.A. Night」はLOTWの「London Town」をもとにして作られた曲なんだ(筆者注:LOTWの『Round Trip』のプロデューサーが、サイド・エフェクトのオージー・ジョンソンであることを受けての発言と思われる)。イギリスのシーンと日本のシーンはそんな感じで関係していて、本多俊之(※3)や中村照夫(※4)がプレイされることにも繋がっていく。そして、名盤といえば福村博の『Hunt Up Wind』だよ。(棚から取り出して)そうだ! 益田幹夫の『Trace』も最高のレコードだ。僕の家には日本のレコードのコレクションがあるからね。

だから、次は日本のミュージシャンたちとSTR4TAのアルバムを作りたいんだ。プロデュースはもちろんブルーイで、録音は日本でやるべきだね。だとしたら、そのサウンドを“ダーティー“にするために、僕も日本に行かなきゃいけないってことだ(笑)。

※1:SHOGUN、PARACHUTE、スペクトラムのメンバーらによる日本のフュージョン・バンド。
※2:イギリスでは『Sunglow』に収録されたヴィヴァ・ブラジル「Skindo-Le-Le」のカバーが人気。「L.A. Night」は『GRAVY』収録。サイド・エフェクト、デヴィッド・T・ウォーカー、ヴィクター・フェルドマン参加のLA録音。
※3:サックス奏者。フュージョン系の『バーニング・ウェイブス』がDJの定番。
※4:アメリカで活動していたベーシスト。『ユニコーン』がレアグルーヴの名盤として知られる。

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