日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年8月は元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターである本城和治の50曲特集。第2週は、彼が手掛けたGS作品について振り返る。
田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのはザ・スパイダースで「あの時君は若かった」。1968年3月発売、今月の前テーマはこの曲です。当時はまだそんな風に振り返りたくないよと思いましたが、この歳になりますと全くそういう気分になります。そんな夏です。

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あの時君は若かった / ザ・スパイダース

今月2021年8月の特集は、本城和治さんの50曲。元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクター。1939年生まれ、もし彼がいなかったらその後の日本のポップミュージックはどうなっていただろう? あの曲、そしてあの人は生まれていなかったんではないか? と思わせてくれる重要な方であります。何よりもグループサウンズとキャンパスフォークに関して彼の右に出る人はいない。ザ・スパイダースはじめ、当時手掛けていたバンドは十数組。一人のプロデューサー、ディレクターがこれだけたくさんの数を手掛けた方はいらっしゃらなかったでしょうね。先週はザ・スパイダースについていろいろ伺いましたが、今週はGSについて語っていただこうと思います。楽しい時間がまた始まります。



田家:こんばんは。

本城和治(以下、本城):こんばんは、本城です。

田家:よろしくお願いいたします。今週はGSのお話なのですが、GSという言葉のネーミングは誰が名付けたのだろう。本城さんという説とかまやつさんという説があると思うのですが……。

本城:それは両方とも違いますね(笑)。これは、グループサウンズに人が集中し出した1967年の夏頃、ジャガーズがデビューした頃だと思うのですが「週刊明星」でつけられたのが正解なようですね。

田家:「週刊明星」がそういう言葉を使ったときにはどう思われました?

本城:別に抵抗はなかったです。それまで表現する言葉がなかったんですよね、音楽的にはボーカル&インストゥメンタルグループという表現もしましたし、ビートグループという言い方もされますね。

田家:テレビで「勝ち抜きエレキ合戦」が始まったのが1965年6月で、その頃からエレキギターを使った加山雄三さんや寺内タケシさんなどバンドやポップスで広まっていったわけですが、「勝ち抜きエレキ合戦」の記憶はありますか?

本城:私はあまりテレビを見る方じゃなかったので、ほとんど見ていません。そういうコンテスト番組はありましたけど、皆インストゥメンタルグループだったんですよ。歌を歌うグループはあまりなかった。要するにベンチャーズとかアストロノーツみたいなエレキギター・インストの大ブームで、それに触発されたグループが色々出ていたわけですね。

田家:そういうインストゥメンタルに歌の要素を入れたのがグループサウンズで、その仕掛け人が本城さんだったと。

本城:たまたまそういうことになりましたけど(笑)。私は一番最初にザ・スパイダースをレコーディングしたんですが、それ以前に一つあるグループをレコーディングしたことがあって。それはレコードにならなかったんですが、当時エレキグループだったザ・フィンガーズですね。

田家:伝説のギタリスト、成毛滋さんのバンド。

本城:ええ。それで3、4曲インストナンバー録ったんですけど、発売する段階になってもうエレキのインストじゃないだろう、ボーカル&インストゥメンタルグループじゃないと時代に乗っていけないし、歌物じゃないとヒットする要素ってそんなにないですからね。それで当時ザ・フィンガーズにボーカル入れろってマネージャーをせっついたんですが、いいボーカルが見つからず諦めちゃったんですね。

田家:さて、今日は「勝ち抜きエレキ合戦」で優勝したバンドが本城さんプロデュースでデビューしております。ザ・サベージで「いつまでもいつまでも」




田家:このザ・サベージが「勝ち抜きエレキ合戦」で優勝したんですけど、それを高校生だった松本隆さんが見ていて「かっこいいなこのバンド」って思って。その時に寺尾聰さんへの印象があって。それが「ルビーの指環」に繋がっていると。

本城:そうなんですね。初めて知りました。

田家:この「いつまでもいつまでも」の作曲は佐々木勉さん。

本城:イントロで口笛吹いてるのも佐々木さんなんですね。

田家:ザ・ブロード・サイド・フォーの「星に祈りを」も手掛けています。

本城:彼はホリプロで社長の堀さんが目をつけて、最初に作家として契約したのかな? それでホリプロとしてザ・サベージと契約して、佐々木さんに曲を書いてもらっていたんです。彼らがデモテープを演奏し始めて、私が最初に聞いたんです。演奏しているのを聞いてこれはいい曲だなと思って、同席したマネージャーにこれ30万枚売れるよって話したのを覚えてます。




田家:ザ・サベージの曲をもう一曲。1966年10月発売の二枚目のシングル「この手のひらに愛を」。ザ・サベージは寺尾聰さんがベースとボーカルで、ギターとボーカルには後にYAMAHAのプロデューサーとして中島みゆきさんや長渕剛さんを育てる奥島吉雄さんが在籍していたグループです。シャドウズのコピーもやっていたとか。

本城:そうですね。もともと彼らはインストグループなので、歌ったことがないんです。シャドウズのコピーをやらせれば彼らが最高だったでしょうね。でもこれで寺尾くんと奥島くんがデビューできてよかったです。

田家:この曲の詞曲は利根常昭さん。それ以外のシングルは、先ほどと同様に佐々木勉さん。利根さんはスパイダースの「太陽の翼」を書かれた方だった。

本城:シンコーミュージックさんが契約していた作家で。なかなかいい曲も書きますし、アレンジャーとしてもいいアレンジされていたので、色々とやっていただきました。

田家:インストのバンドだった分、歌ものに対しての意識はあまりバンドの中で強くなかったんじゃないですか?

本城:そうですね。歌入れの時は多少苦労しました。

田家:しかも二人が歌うわけですもんね。利根常昭さんは、関西出身のザ・リンド&リンダースのシングルも書いていると。ザ・リンド&リンダースも本城さんが手掛けていたんでしょう?

本城:そうです。利根さんは他のグループサウンズにも曲を提供していたと思いますけども。

田家:ザ・リンド&リンダースは関西のグループサウンズの草分けだった。

本城:関西のザ・スパイダースと呼ばれていて、ずいぶんレコード出したんですけど、残念ながらアルバムを作りには至らなかったんですよね。ある程度曲は売れたんですけど、なかなか関東では売れなかったんです。地盤が大阪なもんですから、大阪のテレビでレギュラーだったりとかはしたんですけど、東京でテレビ出演なんかできなかったので。

田家:メディアの問題もあったんですね。

本城:ザ・リンド&リンダースはリーダーの加藤ヒロシがいい曲を書くんですけど、やっぱり曲のセンスが関西っぽいんですよね。

田家:でも加藤ヒロシさんはザ・フォーク・クルセダーズの「戦争は知らない」も作曲を手掛けてますよね。作詞は寺山修司さん。今回色々と調べていく中で、加藤ヒロシさんと寺山修司さんは仲が良かったらしいですね。競馬場で知り合ったとか。今週は調べていて楽しいことが色々ありました(笑)。

本城:加藤ヒロシさんはその後ロンドンに行って活躍されていたみたいですね。

田家:ロンドンで北山修さんが出会っていたらしいんですよ。この番組で北山さんから聞きました。そういうつながりもあるんですね。関西と関東の話は後ほどまた伺おうと思っています、今日の3曲目は、1967年6月発売の ザ・カーナビーツで、「好きさ好きさ好きさ」。




田家:1967年6月発売、ザ・カーナビーツのデビュー曲「好きさ好きさ好きさ」。イギリスのバンド、ゾンビーズのカバーで、ドラムのアイ高野さんがドラムを叩きながら歌い叫ぶ。スティックを客席の方に突き出して叫ぶあのアクションで大ヒットしました。あのアクションはどこから生まれたんですか?

本城:アイくんのアイディアだと思うんですけどね。

田家:この訳詞は漣健児さんなんですね。カバーポップスの生みの親。

本城:そうですね。私はいなかったんですけど、彼らのオーディションの話が事務所からあって、ビクターのスタジオでやったんですよ。私はその頃海外のスタジオにいたもので、立ち会えなかったんです。その時に漣健児さん、シンコーミュージックの専務・草野晶一さんですが、彼が立ち会ってね。その場でこれ面白いな、ちょっと日本語にしようって言って。その時に完成したのかはわかりませんが、後に本番でレコーディングした時にその歌詞を使ったんですね。

田家:ちなみにその海外の仕事というのは?

本城:結局世界中を回っちゃったんですけど、最初はロンドンでウォーカー・ブラザーズの取材をしたり、あとはスイスのモントルーでフィリップスのコンベンションがあって。世界のコンベンションで森山良子に着物を着せて「この広い野原いっぱい」を歌わせました。その時にヴィッキー(・レアンドロス)も同じコンベンションにいて「恋はみずいろ」を披露して、森山良子と仲良くなって。それで帰ってきてから、森山良子は「恋はみずいろ」をカバーしてレコーディングしたんです。その後はアメリカのニューヨークに行ってレコード会社を訪問したり、ザ・ジャガーズの「君に会いたい」の作詞者に会ったりもしました。

田家:え! 清川正一さん? そこで会ってるんですか? この話は後に詳しくお伺いしましょう。ザ・カーナビーツをカバー曲でデビューさせようというのは本城さんの案だったというお話がありましたけれども。

本城:というか、オーディションでやった時にこの曲が最高だったんで。オリジナルもあったんですけど拙い曲だったのと、カバー曲が多かったので。一番フックのあるこの曲でデビューだ、こんな能天気な曲を演奏をできるグループは他にいなかったんです。

田家:ここでザ・カーナビーツの曲をもう一曲お聞きください。1967年9月発売「恋をしようよジェニー」。




田家:作詞が万里村ゆき子さんで、彼女はブルーコメッツの「マリアの泉」も書いた人ですね。作曲は藤まさはるさんです、この人は誰なんだろうと思っていたら今回明らかになりました。本城さんだったんですね(笑)。

本城:そうです。デビューがバタ臭い曲だったので、2枚目はどうしようか迷ったんです。要するにザ・カーナビーツみたいなグループに書ける作家って思い当たらなくて。で、詞は湯川れい子さんのものを預かっていたんですよね。それでこんな曲がいいかなっていうイメージで、作ったことはないんですけど私が曲を作り始めたんですよ。作ってみたら、湯川さんの詞とは全く合わない曲ができちゃって。湯川さんのことは良く知ってたんですけど、私が書いた曲って湯川さんにバレるのも恥ずかしいので、全く知らなかった万里村さんにお願いしたんです。

田家:すごいな、あまり曲を書いたことのないキャリアの方が「好きさ好きさ好きさ」のような大ヒットのあるバンドに書いたというのは驚くべきことですね。

本城:コード進行はGSらしいコードにしたいって思って。それがモチーフで書き出したんです。

田家:藤まさはるっていう名前は意味があるんですか?

本城:意味はないです。あれは勝手につけたペンネームです。

田家:演歌の人みたいですね(笑)。このザ・カーナビーツがデビューした時、カーナビーサウンドというネーミングもありましたが。

本城:これは確か星加ルミ子さんが命名したんだと思いますよ。

田家:ミュージクライフの編集長。

本城:この時にザ・ジャガーズとザ・カーナビーツを同時にデビューさせたんです。なので、ザ・カーナビーツは星加さんが中心になっていろいろ手助けしてくださって。

田家:今日は本城さんが選ばれた10曲をお送りしているのですが、もう一曲ザ・カーナビーツを選ばれています。でもクレジットはザ・カーナビーツではなく、ゲイリー・ウォーカーとザ・カーナビーツで「恋の朝焼け」。


恋の朝焼け / ゲイリー・ウォーカーとザ・カーナビーツ

田家:1968年2月発売。これはゲイリー・ウォーカーという名前は、さっきちょっとお話に出たウォーカー・ブラザーズに関係してそうですね。3人組の一人でした。

本城:ウォーカー・ブラザーズは前年にプロモーションしたんですけど、すごく人気で。1968年の正月に来たんですが、もう解散していたんですよ。私が初めてロンドンに行った時に、翌日解散すると言われて。それで日本に来て公演してほしいということで、1968年にはじめて日本武道館公演も行ったんです。その時にせっかく来たんだし、ゲイリー・ウォーカーのレコードもなかなかなかったもんだから。ザ・カーナビーツをバックに来日公演の前に一曲レコードにしたんですね。

田家:この曲のクレジットは漢字になってるんですよね。スコット・ウオーカーも漢字表記で、作曲が乗輪寺モトオさん。これは本城さんですか?

本城:そうです(笑)。この時はレコーディングが決まったんですけど、やはり曲探しで日にちもないし誰に頼んだらいいのかさっぱり見当もつかないのでこういうことに。ゲイリーってそんなに歌は上手くないんです。なので、すぐ鼻歌でも歌えるようなシンプルな曲じゃないとと思って私がレコーディング前日にブルースコードでメロディをつけて、簡単に歌える8小節のサビも作ってスタジオに持ち込んだんです。それで、ゲイリーと仲の良いスコット・ウォーカーもレコーディングに立ち会ってくれて。彼は非常にプロデュースに関心が高くて、まず詞も作ってくれたし、音出ししたらドラムのチューニングまで全部やってくれて。要するに、イギリスのビートルズみたいな重いチューニングの仕方を日本人は知らなかったんですよ。スコットは良く知っていて、こうやればイギリスの音ができるんだ! と思って。ただ、レコーディング終わってみるといろいろな音を重ねちゃったんでドラムの音があまり聞こえなくて(笑)。マルチレコーディングじゃないしね。最終的にスコットと僕とスコットのマネージャーのコーラスも入れたし、スコットのピアノも入れたりしてたくさんダビングしてるんですよ。

田家:バンドメンバーもいたんでしょう?

本城:オケ録りの時はいましたけど、コーラスとか歌入れする時にはいませんでしたね。

田家:そういう時代でありました。ゲイリー・ウォーカーとザ・カーナビーツで「恋の朝焼け」でした。




田家:1967年6月発売、 ザ・ジャガーズのデビュー曲「君に会いたい」。私事ではありますが、友達と一緒にスナックや飲み屋で一番たくさん歌ったのがこの曲かもしれない、そんな一曲であります。顔が赤くなってまいりました(笑)。GSで最も知られているイントロの一つがこれでしょう。

本城:ザ・ジャガーズというグループは、もともと宮ユキオも曲を書いていたんですがシングルにできる曲がなくて。それでたまたまニューヨークに当時いた作詞作曲家の清川正一さんがね。

田家:この方誰だろなあってずっと思っていたんですよ。

本城:私も知らなかったんですよ(笑)。当時ニューヨークにジョー宮崎さんというシンコーミュージックの関係者がいて、草野さんがこの曲を彼から預かって、ザ・ジャガーズにあてがって練習させていたらしいんですよ。私もある程度仕上がってから演奏を聴いたんですね。たまたまニューヨークに行った時に、ジョー宮崎さんを訪ねて行ったら、清川さんがちょうどいらして紹介されて。「この人が作詞家の人か!」と。普通の中年の男の人でした。特に音楽家っていうことでもなくて、趣味で作曲しているということでした。

田家:シンコーの管理楽曲だったんですか?

本城:曲を売り込まれて、それで草野さんがザ・ジャガーズの曲がないからっていうことで「この曲を練習しろ」っていうことだったんじゃないですかね。このバンドは作詞家・作曲家がいなかったので、プロに頼らざるを得なかったんですね。

田家:その次に出た曲お聞きください。1967年10月発売、「ダンシング・ロンリー・ナイト」。




田家:これかっこよかったですね。イントロのファズギターもかっこいいですよ。この曲の作詞が漣健児さんで、作曲が鈴木邦彦さん。鈴木邦彦さんは、このちょっと前にザ・ゴールデン・カップスの「いとしのジザベル」を発売している。あれもいい曲でしたね。

本城:その前に黛ジュンの「恋のハレルヤ」でも話題になってましたよね、あれもGSみたいな。この曲は漣健児の作詞になってますよね。最近気づいたんですけど、漣健児は訳詞家で作詞した記憶ないんだけど、なんで作詞家にクレジットされてるのかわかんなくて(笑)。当時シンコーミュジックでジャガーズの面倒を見てた青柳さんという方に電話して確認してみたんですよ、そしたら「実はこれ私が書いたんですよ。漣健児の名前を使わせてもらったんです」と。

田家:シンコーミュージックらしい、と言えば怒られそうですけど(笑)。次の「マドモアゼル・ブルース」は筒美京平さんが作曲されています。

本城:ジャガーズの岡本信とかの声の質感と京平さんのセンスが合いましたね。この後ずっと京平さんにジャガーズはやってもらうことになったんです。ある意味歌謡曲っぽいんですけど、ジャガーズには上手く合った気がします。

田家:筒美京平さんは、「マドモアゼル・ブルース」とオックスの「スワンの涙」の印象が強かったですね。素敵な曲だなと思ったことがありました。GSというとミリタリールックというのがGS全体のイメージになったりもしていますが、ジャガーズはミリタリーのイメージがありましたね。

本城:ザ・ジャガーズとザ・スパイダースでしたね。これはやはり、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のイメージが大きかったんじゃないですかね。イギリス風のミリタリーのイメージだと思うんです。

田家:なるほど。次の曲のシングルのジャケットもミリタリーでした。ザ・テンプターズで「忘れ得ぬ君」。




田家:1967年10月、ザ・テンプターズへのデビュー曲「忘れ得ぬ君」。作詞作曲はバンドのリーダーでギター、ソングライターの松崎由治さん。通称、ヨッチン。

本城:彼がいるおかげでザ・テンプターズは成功したって思いますね。他のグループはそういう人がなかなかいなかった。当時、いい作曲家がいて成功したのはブルー・コメッツとザ・ワイルド・ワンズとザ・テンプターズとザ・スパイダースでしたね。

田家:ザ・テンプターズと最初に出会われたの経緯は覚えていますか?

本城:ザ・スパイダースの事務所スパイダクションが早いうちに契約していて。他からも注目されていたんでしょう。本当かわかりませんけど、ザ・スパイダースはザ・タイガースに対抗できるグループを自分たちの後に繋いでおきたいということでザ・テンプターズと早めに契約したという話もあります。

田家:なるほど。「忘れ得ぬ君」はショーケン一人で歌ってないですもんね。

本城:「忘れ得ぬ君」はヨッチンのソロですからね。ショーケンはハーモニカ吹いてるだけですから。なのでB面「今日を生きよう」はショーケンのソロにしたいなと思って。ただあまりいい曲が見つからなかったんで、たまたまグラス・ルーツのオリジナル曲でフィリップスにリビング・デイ・ライツというグループがカバーしたバージョンがあってすごく良かったんです。これをザ・テンプターズもやったらいいなと思って聞かせて、なかにし礼に良い歌詞書いてよってお願いして。両面でヒットしましたね。

田家:両A面シングルという言葉もなかったもんですからね。事務所のスパイダクションは、元々ホリプロなんでしょうけど、本城さんはナベプロとは仕事をしていないんですよね。

本城:一切やっていません。するチャンスもなかったというか、シンコーミュージックさんとやりとりしてたから、ナベプロさんとはやりにくいというのもありましたし。ああいう会社は社長の意向が強かったんでしょうし、ディレクターの意向じゃなかなか上手く進まないし。私は結構自分でやりたいことやりたいタイプだったので。

田家:そういうザ・テンプターズの二枚目のシングルもオリジナルでした。「神様お願い」。




田家:1968年3月発売、ザ・テンプターズの「神様お願い」。これも詞曲が松崎由治さんで、シングルチャート2位になりました。

本城:変わったイントロですよね。このイントロをどうしたらいいか彼はなかなか思いつかなくて、自宅近くカエルが鳴いている夜中の田んぼにギター持ち出して。たまたまじゃらんと鳴らしたら、あ、これがいいんじゃないかなって。

田家:ちょっとインド風な感じですよね。

本城:とてもプロでは考えられないもので、スタジオで聴かせたら面白いんじゃない? ってことで。神秘的な感じもするし、これでいこうってことになったんです。ザ・タイガースをやってたすぎやまこういちさんが「あのイントロは信じられない、音楽家には考えられない」って言ってましたよ。

田家:それはビートルズにも通じたんでしょうね。松本隆さんが日本で唯一影響を受けたドラマーが、ザ・テンプターズの大口さんだって言ってました。これもこの間知りました。どんな音楽に影響されたのか、洋楽の話はするけど、邦楽にことはあまり言わない人が多いですよね。GSが変えたことで言うと、ここで台頭してきた新しい作曲家がたくさんいらっしゃった。ザ・タイガースのすぎやまこういちさん、ザ・ジャガーズの筒美京平さん、ザ・ゴールデン・カップスの鈴木邦彦さん、ザ・テンプターズは村井邦彦さんのイメージもありました。GSはなぜそういう場所になっていたんでしょうね?

本城:新しい時代の音楽だったんで、それまでの作家だとエレキギター中心の音楽って作りづらいですよね。やっぱりビートルズ世代じゃないと。そういう世代でなぜ作家が生まれてこなかったのかというと、旧態依然としたレコード会社の専属制度の弊害もあったかと思うんですよ。それでGSという文化ができた時に、なかなかそういう作家が出てこない。グループ内にも作家がいなかったバンドも多かったでしょうし。

田家:それなのに人気の方が先に出てしまった、時代に業界が先を追い越されたという現象でしょうね。それでは本日10曲目、テンプターズ初の1位の曲「エメラルドの伝説」。




田家:作詞がなかにし礼さん、作曲が村井邦彦さん。この曲はどんな曲だと思っていらっしゃいますか?

本城:いくらオリジナル曲を書けるメンバーがいるとは言え、やはりアマチュアなのでいつまでもいい曲を書けるわけじゃない。これからプロとしてやっていくなら、スタッフもプロとして組んでいないといけないということで、村井邦彦に白羽の矢を当てて曲を作ってもらったんです。

田家:ショーケンさんのパフォーマンスも計算して書いていたんですかね。

本城:当然意識はしたでしょうね。

田家:先ほど海外の話も出ましたが、本城さんは海外録音の先駆者でもあって。1969年にザ・テンプターズのメンフィス録音のオリジナル曲を集めたアルバム『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』もリリースされている。

本城:メンフィスは当時、ボブ・ディランとかダスティス・プリングフィールドとかいろいろなジャンルの人がメンフィス参りをしていいアルバムを作っていたので、メンフィスサウンドというのも魅力ではありました。たまたま同じころに森山良子がナッシュビルでレコーディングするという話もあったんですよ。

田家:この話は最終週にまたお伺いしましょう。こういうGSがなぜダメになっていたんでしょう?

本城:色々原因はあったんでしょうけど……。

田家:この話も最終週にまたお伺いしましょうか(笑)。




田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」本城和治さんの50曲。1970年を境にしたJ-POPシーン、日本語ポップスシーンの生みの親の一人。元日本フィリップス・レコードのプロデューサー本城和治さんをゲストに迎えた5週間。今週はGSについてお伺いしました。今流れているのは後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

本城さんが選ばれた曲がそうだったんでしょうけど、やはりバンドの音だなと思いました。ギターが歪んで、ベースがアフターで、ドラムがドコドコ入る。そういうバンドのサウンドを最初に商業的にヒットして届けてくれたのがGSだったなと再確認しました。そして皆で歌うと楽しいという経験もくれました(笑)。日本で最初のバンドブームがこのGSでありました。ピークの時期は1966-1968年、1969から1970年になると人気は低迷します。1970年代に入ると、サイケデリック・ロックとかブルース・ロック、プログレッシブ・ロックなどのニューロックなどが出てきて、GSはそこに移行していく掛け橋になりました。同じころにシンガーソングライターも出てきてフォーク・ロックも主流になっていきます。なぜGSがあっという間に消滅したのかは、最終週に本城さんに改めてお聞きしようと思っています。ですが、やはり画一化、マンネリ化していったのが大きかった。そうさせたのは作家不足だったんだと改めて思いました。それが当時の日本の音楽状況だった。そういう曲を書ける作家がいなかった。ファンはかっこいいものに飛びつくわけですが、業界の中ではまだ認知されていなくて、やれる人もいなかった。数少ないディレクターがそれを支えていたのが当時の状況。その頃の最大の立役者の一人が本城和治さんだったんだと思いました。そこから始まったこともたくさんあります。来週は本城和治さんが手掛けられたキャンパス・フォークの話も伺っていきます。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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