アフガニスタン生まれの米女優が経験した恐怖の72時間。その全貌に迫る。

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2021年8月13日朝、アフガニスタン出身の女優兼映画制作者として米国で活動するフェレシュタ・カゼミは、カブールにある自分の事務所で新作の予告編に取り掛かっていた。ちょうどその時、Twitter上で「カンダハル」というワードがトレンドに上がっているのに気づく。そして、アフガニスタン第二の都市がタリバンの手に落ちたことを知った。その日タリバンは、さらに2つの都市を陥落させることとなる。「新作の上映会には誰を招いて、どこの大使館で開催しようかしら」と、カゼミがほんの少し前まで思い描いていた計画は崩れ去り、恐怖と不安が突然襲ってきた。

タリバン攻勢のニュースは、多くのアフガニスタン人に衝撃を与えた。しかしカゼミは、さらに深刻な懸念を抱いていた。彼女は、世界的に見ても史上最悪級の人権抑圧の歴史を持つ国家における女性の権利を主張する有力なフェミニストとして、活動を続けている。アフガニスタンがタリバンの支配下にあった1996年〜2001年には、女性が仕事や教育の機会を奪われて一般生活から切り離され、さらに集団処刑も行われていた。女性の権利に詳しい専門家550人を対象にしたトムソン・ロイター財団の調査によると、ごく最近(2018年)までアフガニスタンは、女性にとって世界で最も危険な国の第2位にランクされていた。

カゼミは最近の初監督作品をはじめ、これまでの配役やプロデュース作品についても、積極的に発言してきた。「これまで携わってきた仕事のほとんどは、人権に関わる作品が多かった」と彼女は言う。「アフガニスタンには人権侵害が蔓延っているから、当然の流れね。アートや映画が取り組むべき重要なテーマだと思う」

映画の中でカゼミは髪の毛を隠さず、肩を出した衣装も着ている。また、スクリーンでキスシーンを披露した初めてのアフガン人女優でもある。アフガニスタンにおけるレイプ問題を取り上げた『The Icy Sun』(2013年)では主役を演じ、レイプ被害者が投獄されたり、レイプ犯と強制的に結婚させられるような文化に疑問を投げかけた。彼女を先駆者だと評価する声もあれば、殺害の脅迫を受けることもあった。

アフガニスタンが表面上は民主主義国家だった時代でも、彼女のすべての行動にはある程度の危険が伴った。しかしタリバン支配下のアフガニスタンでは、死を意味する可能性すらある。

自分の故国がわずか72時間のうちにみるみる崩壊していく中で、カゼミは間一髪で難を逃れた。彼女はローリングストーン誌に、脱出劇の一部始終を語ってくれた。


いつもと変わらぬ日常、突然の出来事

カンダハルが陥落したと聞いた時は、ショックだった。アフガニスタンの中でも特に広い州だから。国内の各地が次々と攻め落とされていく中で、カンダハルが落ちた時は本当に不安が大きくなった。次にヘラートも制圧され、1日に3つの大都市が陥落してしまった。

ショックを受けたけれども、私の周りではまだいつもどおりの生活が続いていた。私は両親たちと、行きつけのレストランへ出かけた。子どもたちはアヒルに駆け寄って遊び、皆は「これからどうするの? このまま残るの?」という感じで気楽におしゃべりしながらアフガニスタン料理を楽しんだ。しかしその間も状況は進行していた。

翌日、さらにいくつかの州がタリバンの手に落ちた。現実世界で文字通り、ドミノ倒しを目にすることになった。カンダハルが陥落した直後、空港に近い安全なホテルのコンパウンドへ避難するように言われた。でも私は「大丈夫。私は逃げたくない。できないわ」と答えた。それでも航空券だけは押さえておこうと思ったけれど、チケットを取るのに一晩中かかった。予約しようとしても、すぐに完売になってしまう状況だったの。それでも最終的に、8月18日の飛行機を予約できたわ。15日の深夜1時頃に荷造りをしていると、友だちからメールが来て、パグマンが陥落したと教えてくれた。カブールから1時間の場所よ。「早く荷造りを済ませなさい」と言われたので、また徹夜で服や靴を詰め始めた。私の荷物の大部分は、映画撮影用の移動式機材だった。私の友だちが軍のコネを使って、安全なホテルのコンパウンドを偽名で3泊予約してくれた。なぜそんなことをするのかわからなかったけれど、私の安全のためだと言われたわ。私はどうにか避難することができた。コンパウンドは、誰もが簡単にアクセスできない安全な場所にあった。

AFP通信の知り合いから、カブールの街は混乱して無秩序状態になりそうだと聞いた。それまでも既に、強盗が横行していることは知っていた。昼になって私は、ATMで現金を下ろすために短時間だけ外出することにした。そこで目にしたのは、誰もいない街の奇妙な様子だった。いつもは賑わっているシャフレ・ナウ地区にも、ほとんど車が通っていなかった。2ブロック先のATMまで行くタクシーを捕まえることすらできなかった。行きつけのスーパーマーケットまで行くと、親切な運転手がATMまで送ってくれた。ATMは閉まっていて、小さな覗き穴から怯えた目をした係員に「営業していない。ATMに現金も入っていない」と言われたわ。すべての銀行のATMが空っぽの状態だった。みんなお店を閉めて逃げ出していた。大人がまるでホラー映画を見た子どものように怯える姿を見ると、心が痛んだ。しかも現実の世界で起きているということに、胸が張り裂けそうだったわ。


武装したタリバンと遭遇

ホテルまでは徒歩で帰らねばならず、歩いていると、「お姉さん、こちらへ来なさい」と、女性に声をかけられた。「見えている髪の毛を覆って、下半身も隠しなさい」と言う。私はいちおう被り物をして、ジャケットを腰に巻いて腿を覆っていた。でも極度に保守的な文化のアフガニスタンでは、十分ではなかったのね。彼女には「ジャケットでは短すぎるし、髪の毛も見えている」と言われた。なんだか嫌な気持ちになったわ。ホテルへ着くと支配人に「早く中へ入りなさい。タリバンが2時半頃にカブールへやって来るらしい」と告げられた。

敷地内のコンパウンドまで移動する防弾車を待っていると、運転手が外出を怖がって送迎してくれないことがわかった。私は焦って、いとこに電話してコンパウンドまで車で送ってくれるように頼んだ。ところが、いとこの車は渋滞にはまってしまった。タリバンがカブールへやって来ると聞いた交通警官たちが、職場放棄して逃げ出していたのよ。おかげで街中が渋滞だった。空港にも数千人の人々が殺到して、大混乱の第一波が押し寄せていた。

私はあちこちへ電話を入れた。まずは借りているマンションの管理人へ電話して、「先月分の家賃を支払いたいんだけど、現金が下ろせない」と伝えた。何とかして私のいとこと落ち合おうとしたが、いとこは大渋滞で身動きが取れなかった。軍の知り合いに「明日出国した方がいいかしら」と尋ねると、「とりあえず今日はホテルのコンパウンドに行った方がいい」を言われた。急に緊張して涙が出てきた。いとこも誰も頼れないのであれば、自力で逃げるしかない、と決意した。そうこうしているうちに、いとこが現れた。

午後5時に、荷物をまとめて移動を始めた。黒のアバヤ(イスラム教徒の女性が身にまとう全身を覆うローブ)を着て、コロナ対策のマスクで顔を隠し、頭には黒いスカーフを被った。階下へ降りたちょうどその時に、武装したタリバンが建物の前にやって来た。非常にまずい状況だ。建物の持ち主たちは、「我々は仲間だろう。建物の管理は任せるよ。お願いだ(殺さないでくれ)」という態度だったので、建物は次々とタリバンに制圧された。

私は恐怖を覚え、いとこも怯えているように見えたわ。いとこはタリバン政権下のアフガニスタンで育った。道端に死んだ女性が横たわっているような時代よ。彼はタリバンにものすごく怒っていて、私に声を出さないように注意した。そして「僕から離れないで」と言うと、車に乗り込んだ。街のあちらこちらにタリバンの姿が見えた。彼らが正にカブールへ足を踏み入れたと同時に、私たちは移動しようとしていた。車から外を見ると、街中がタリバンだらけだった。

私の泊まっていたホテルのコンパウンドは、米国など海外のプロジェクトに関わる外国人が利用するような施設だった。セキュリティもしっかりしていて、従業員は防弾車で移動している。かつては、私のような外国人がカブールに滞在する時に防弾車など必要なかった。でも今では、私が泊まったコンパウンドのように、高度なセキュリティが必要とされている。


カブールから出国するための手続きを待つアフガニスタン人の列を見守る米国兵(2021年8月25日)(Photo by Marcus Yam/ "Los Angeles Times"/Getty Images)



瞬く間に街全体がロックダウン状態に

ずっと寝ていなかったので、コンパウンドに到着すると、どっと疲れが出た。入り口にいるタリバンの姿を見て、ショックで腹が立ってきた。荷物を運び入れて、とにかく眠りたかった。ここ一週間ずっと連絡を取り合っていた妹へ「これから寝る」とメッセージを入れると、折り返し電話がかかってきた。「空港が大変なことになっている。みんな飛行機に飛び乗ろうとしてパニックになっているわよ」と教えられた。それでも私は「たぶん偽の航空券を掴まされたのでしょう。もうすぐ収まると思うわ。きっと小さなニュースサイトの情報よ」という感じだったが、妹の答えは「いいえ、ABCニュースよ」だった。それから私は眠りについた。朝、「空港が大変よ」と母と妹から電話があった。私が寝ている間に、家族はずっと空港が陥落する様子をテレビで見ていたらしい。そして私の航空券もゴミになってしまった。

フロントへ行くと、各所にタリバンが検問所を設置したために街全体がロックダウン状態だ、と教えられた。ひと晩のうちにカブールが制圧されてしまった。私は間一髪だった。また気分が悪くなってきた。

ホテルの防弾車で空港まで送ってくれないかと頼んでみたものの、「コンパウンドの外にはタリバンがいて、車は出せない。タリバンが運転手と乗客を引きずり下ろして、車を奪ってしまった。外は今、人で溢れかえっている」と告げられた。

空港は2種類あり、ひとつは民間機用の空港で、おそらく世界中に流れているニュースで見たことのある風景だと思う。もう一方は軍用飛行場で、脱出用の飛行機が発着していた。私がいたのは軍事施設側の地区で、数千人が押し寄せていた。ホテルの前には2000人の人々が歩いていたが、空港では10倍に膨れ上がっていた。同じくコンパウンドに滞在していた英国人が、「ここから出られるかすらわからない」と言っていた。そして、私の乗るはずだったフライトもキャンセルされた。すべてが崩れ落ちていく。銃声も聞こえた。人々を蹴散らすために、タリバンが空へ向けて発砲したらしい。

カリフォルニア生まれの妹が、私の移動や各種手配を手伝ってくれていた。私の米国人の友人らが、アフガニスタンで働く人々を脱出させるためのチャーター機を手配していた。泣きそうだわ(声を震わせる)。友人たちは、個人的な義務感で動いている。善意の一般市民が、バイデンや国際社会の尻拭いのため、自発的に人々を助けようとしているのよ。自分たちと一緒に働いた人々を国外へ脱出させなければ、きっと彼らは殺されるから。殺されてしまうのよ。友人たちが、私の席も確保してくれた。「きっと君も、奴らに捕まれば殺されるにちがいないからね。」

信じられないけれど、あっという間に陥落した。私は、目立たないように潜伏していることなどできない。突然私は、映画で華やかな衣装を着て自由を叫ぶ女性として、無防備な状態になってしまった。1年前からタリバンは、人々の暗殺を始めている。人権派の政治家や人権活動家やオピニオンリーダーたちが、不可解な形で暴力的に殺された。タリバンからしてみれば、私もそういうオピニオンリーダーのひとりに数えられるのよ。


4歳でアフガニスタンを離れた理由

私はある事件がきっかけで、自分の考えを主張するようになった。2015年、タリバンの自爆テロで56人の若いアフガニスタン兵が亡くなる事件があった。爆破が起きて通りは渋滞したが、数時間後には事件現場を何事もなかったように人々が通り過ぎていく。遺体はすべて回収されたが、道路中が血だらけだった。現場に落ちていたのは血だけではなかった。誰かがすべてをきれいに洗い流した。誰もが衝撃を受けたし、私の人生を変えるような出来事だった。血が流されたからだけではない。あっという間に遺体や血が片付けられたことにショックを受けた。人生は何て儚いのだろう、と感じたわ。簡単に洗い流されてしまうものなのね。

そして私は、「みんなどうして何もしようとしないのかしら」と思った。アフガニスタンの国民は皆貧乏で、社会的にも脆弱だ。誰もが貧しい生活を送っている。文字通り、いじめよ。罪のない人々が殺されている。誰もが生きるのに必死で、自分を守る手段を持たない貧しい人々よ。

私は4歳の時にアフガニスタンを離れた。でも、通りで遊んだり釣りをしたりと、楽しかった思い出があるわ。教師をしていた母が仕事から帰るのを待ち、姿が見えると走っていって抱きついた。幸せな時間だった。母とよく街へ出かけたのも覚えている。母に言わせれば、私はおしゃべりな子どもで、会う人すべてに「何をしているの?」と聞いて回っていたという。

私の子ども時代は共産主義政権で、当時も暗殺が横行していた。問題とされる人々のリストがあって、私の父親もリストに名を連ねていた。

母方の祖父アブドゥル・ワヘド・バレクザイは軍の幹部だったので、家族はアフガニスタンの政治社会とのつながりが深かった。また父方の祖父は、政府の鉱業担当次官だった。私の父母は当時、他のインテリ層の仲間たちと共に、国のあり方についての市民の声を発信していた。だから父は当局の暗殺者リストに入っていたのね。ある時、アフガニスタンとソ連の共産主義政権の兵士が私の家に押し入ってきた。私は初めて見る彼らの姿に驚いて、泣き叫んだわ。そして、彼らは大人をみんな連れ去った。


脚を露わにして頭部も覆わないフェレシュタ・カゼミの容姿に目を見張るブルカを着た女性たち(カブール旧市街シャレ・コーナ地区、2013年)(Photo by Carolyn Cole/"Los Angeles Times"/Getty Images)

私の父は、修士号を取るためにアジアの別の国にいて不在だった。もしも父が家にいたら、殺されていたと思う。私たちは母の政治的なコネを使って出国できた。米国の学校で私は、父親を殺されたという多くのアフガニスタン出身の子どもたちに出会った。私は愕然としたが、もしも私の父がいなかったら家族はどうなっていただろうと考えると、私たちは幸せな方だと感じるわ。


殺人、自爆テロ、トラック爆弾などをテーマにした映画やアート作品の制作を続けた

2012年に私はドキュメンタリー映画を制作するため、出国後初めてカブールを訪れた。大人になった私の、ひとつの転機となる経験だった。いとこが空港で迎えてくれた時、私はラバーブーツとヨガレギンスにTシャツという格好だった。いとこには「ジャケットぐらい羽織ってくれよ」と言われたけれど、当時の私はすっかり米国人になっていたので、どうして体を覆わねばならないのか理解できなかった。

車に乗り込んで街へ入ると、そこかしこからダリー語が聞こえてきた。タクシー運転手も交通整理の警察官も、誰もが同じ言葉を話していた。英語を聞き慣れた耳には、とてもスピリチュアルな体験だった。突然、母国語しか聞こえてこない場所に放り込まれたらどうだろう? 信じられない状況だった。周囲を見回すと、何か感じるものがあった。貧困やゴミや、カブールの街の風景は、ネガティブなものだろうか? 私は、勇気と刺激と美しさすら感じた。とても刺激的だった。醜く酷いものに見えなかったのはたぶん、人々の顔やしぐさが私の家族を思い出させたからかもしれない。

でも何かが足りないように感じた。私は米国語を話し、米国人として振る舞っている。幼い頃から米国で育った米国人よ。そんな私が大人になって、自分では理解できない現実や理念に直面している。この国では、「ちょっとお待ちなさい。他の皆と同じように行動しなさい」と言われる。誰もが私に食事を提供し、気遣ってくれる。客人を思いやり気遣うアフガニスタン流のもてなし方だ。米国人に思いやりがないと言っている訳ではないの。でも、やり方が違っているのよ。その後2015年に再びアフガニスタンに滞在して、国中で起きている殺人、自爆テロ、トラック爆弾などをテーマにした映画やアート作品の制作を続けた。私がアフガニスタンの現状を伝えなければならない、という倫理的・道徳的な責任を感じたのね。それからはカブールが私の故郷になった。

殺人、通りに流れる血、バラバラになった遺体。アフガニスタンの一般市民が見たものを写真に収めて投稿したツイートを、まとめてアフガンのTwitterとして発信し始めた。「今起きている現実に目を向けて欲しい。大きな過ちが犯されている」と訴える声は、どんどん広がっていったわ。私たちは一般市民の声として、パキスタンに制裁を科すよう米国政府に訴えた。パキスタンは、タリバンによる自爆テロを支援している。なぜ米国政府が動かないのかは、わからない。おそらくパキスタンが核保有国だからね。パキスタンは、ワシントンで数十億ドル規模のロビー活動を仕掛けている。米国にとってパキスタンは、アフガニスタンよりも重要な存在なのね。アフガニスタンの問題を解決したいと思えば、米国はパキスタンに制裁を科しているはずよ。


深夜1時頃、部屋のドアを激しくノックする音が聞こえた

アフガニスタン国内で組織の戦闘員や支持者を統制できる、などというタリバンの考え方は楽観的すぎると思う。彼らは勝利したと思っているから、権力を握っているつもりになっている。暴力を振るい、さらにエスカレートする力を握っている。自分たちの計略を実現するためのタリバンのやり方だ。彼らは、暴力に訴えることしか知らない過激な若者を集めている。彼らは正規の教育を受けられず、小さな頃から過激思想だけを叩き込まれて、夢や希望を持つことさえ許されていないのよ。

ジョー・バイデンが、タリバンとは誠実な組織として交渉できる、などと楽観的な考えを持っているのではないか、と私は思う。タリバンは権威主義者であり、無秩序な暴力で権力を維持している。だから、空港でも組織の戦闘員が人々へ向けて発砲するのを止められなかったのよ。アフガニスタンでは今、米国人であっても拘束されている。アフガン系米国人、アフガニスタン人の英語通訳やジャーナリスト、アフガニスタンのメディア関係者、アフガニスタン人活動家、アフガニスタンの女性など、米国が支援したプロジェクトに関わり、反タリバンの立場を取るすべての人々が危険にさらされている。


アフガニスタンのヘラートにある難民キャンプを訪れたカゼミ(2015年)(Photo by Hoshang Hashimi/Courtesy of Fereshta Kazemi)

米軍に永遠に駐留して欲しいと願うアフガニスタン国民など、誰もいなかった。彼らは独立を願っていた。それでもバイデンがなぜこのような形で去ったのか、理解できない。理にかなっていない。アフガニスタン軍が戦闘を続けるためのロジ的支援を全面停止してしまった理由も、理解できない。米国は、ロジスティクス、サプライ、維持管理などのサービスを提供し、アフガニスタン軍が全面的に頼っていたすべてのコントラクターを撤退させてしまった。アフガニスタン軍に独立するための技術的な準備が整っていないことを、理解していたのだろうか? バイデンの安全保障チームの中の誰も、状況を考慮しなかったのだろうか? なぜ駐在の米国大使館員も退避させたのか? アフガニスタン国内に留まっている米国国民を、誰が捜し出すのだろうか? 人道上の悲劇を目の当たりにした私たちが最低限できることは、責任問題を追及することよ。

ホテルのスタッフたちが、状況を説明してくれた。「タリバンが、ホテルのコンパウンドの外にある私たちの家々を回り、“ホテルのスタッフは米国人と仕事をしているのではないか“とか“彼らはどんな様子で、何を話していたか?“などと聞き回っているらしい」という。多くのスタッフは口々に「家には帰りたくない」と話し、タリバンを恐れてホテルのコンパウンド内に宿泊していた。あるスタッフは「電話番号を教えてくれ。脱出するのを助けてもらえないだろうか。誰か助けてくれる人を知らないか。連絡してもいいか」と聞いてきた。私は、「もちろんよ。あなたの電話番号を教えて。力になってくれそうな人たちに聞いてみるわ」と答えた。

ホテルには3日間滞在した。どうやって生き延びるかに必死だったので、ニュースなど見ている余裕もなかった。最後の晩にベッドへ入ると、深夜の1時頃に部屋のドアを激しくノックする音が聞こえた。外では米軍の兵士が「米国人か? 米国人か?」と叫んでいる。起き上がって出ていくと「今すぐ出発するぞ」という。私が荷物をまとめていると、兵士に「全部を持っていくことはできない」と言われた。「友人がチャーターしてくれたフライトを待っているのだけれど」と私が言うと、「あなたはわかっていない。昨晩、空港は制圧された。タリバンの攻撃に、人々は必死で逃げている状態だ。我々にも今後の状況は見えない。だから全部の荷物は運べない」との答えだった。そこで私は撮影機材の入ったバッグ2つだけを持ち、その他の着替えなどは諦めて着の身着のまま部屋を出た。髪を整える暇もなかった。


機内でひとりの女性が意識を失い、医者の手当を受けていた

装甲車に乗せられ、空港へ到着するまでに兵士から検査を受けた。空港に着くと、脱出用に手配された大型の軍用機に乗り込んだ。機内には乗組員のほかには25人だけで、混み合った状態の脱出機とは違っていた。

もうカオス状態だった。飛行機に乗ったことを妹へ知らせるためにメールしようとしたが、機内からは送信できなかった。アフガニスタンの家には、撮影現場の写真を残してきた。どんな気持ちで壁に「私はここにいた」と書いたかわかる? ここで何をしていたかという証拠を残したかったの。誰が来ても、たぶんタリバンだと思うけれど、「ああ、ここは女優の部屋だったんだな」とわかるようにね。ささやかな抵抗かもしれないけれど。飛行機が上昇する時に、私はカブールのアパートメントのことを考えていた。

当初、飛行機はドーハへ向かうと告げられた。しかしカタールの米軍基地が超過状態だったので、サウジアラビアに行き先が変更された。基地に着くと多くの米軍兵士に迎えられた。米軍には、脱出するすべてのアフガニスタン人への待遇に感謝したかった。食事と水や歯磨きなど、必要なものをすべて提供してくれた。私はとにかく「ありがとう、ありがとう」と言い続けた。兵士が全員のビザの有無を確認する際に、私に通訳を依頼してきた。兵士は「皆に心配しないよう伝えてくれ。ビザを持っていないからといって処遇が変わる訳ではない。我々はただ名簿を作成したいだけだ」と言った。米軍の対応は素晴らしかった。彼らは即座に、イスラム教徒がお祈りをするための個室を作った。木で壁を組み立てて、礼拝用の敷物や清潔なシートのほか、「タスビーフ」と呼ばれる礼拝用の数珠なども用意してくれた。とても思いやりのある対応だった。

サウジアラビアの米軍基地を離れる直前に、現地の人たちが大皿料理でディナーパーティーを催してくれた。サウジアラビアの人たちの経験に基づく難民に対するイスラム流のもてなしだった。米軍の携行食などではなく、サウジの米とラム肉を使った大皿料理からデザートまで、とても思いやりのこもったもてなしだった。

サウジアラビアには12時間以上滞在し、首都リヤドからドーハへと向かった。私のような米国人とは別に、アフガニスタン国民は、避難先が決まるまで待機する必要があった。多くの国々が、難民の最終的な落ち着き先が決まるまでの支援を申し出てくれていたようだった。

その後、大型の軍用機でクウェートへ移動したが、今回は混み合っていた。暑い機内は人々であふれ、足の踏み場もないほどだった。パニック状態の中、鼻で息をしながらリラックスしようと努めた。ひとりの女性が意識を失い、医者の手当を受けていた。

クウェートからは通常の飛行機でワシントンを経由して、私は西海岸へ飛んだ。私は精神的にショックを受けていて、起きたことを文章にまとめることすらできなかった。すべてが目まぐるしく進み、とても付いていけなかった。


異様な沈黙と圧迫感

カブールでは、朝7時から夜の8時まで3日間毎日空港に通い続け、バックパックひとつでゲートをどうにか通り抜けようとするアフガン系米国人男性がいた。彼はツテを頼って、まだ従軍しているアフガニスタン軍の特殊部隊員に連絡し、どうにか脱出する手段を探っていた。また別のアフガン系米国人女性は、ゲートへ4日間通った。彼女は手に怪我を負っていたが、彼女の運転手はタリバンに腕を折られたという。彼女は、ゲートを乗り越えさせようと人が人を押し上げる様子をビデオに収めていた。信じられないさまざまな異常な出来事が起きていたわ。

カブールのハイル・ハナ地区では、半袖の上着を着て腕を出していた少女がタリバンに腕を撃たれた上に、黒の装甲車で連れ去られたという。また、2人の女性ジャーナリストが追い回された挙句に、ひとりは逃げられたが、もうひとりは拘束されてしまった。今では、ジャーナリスト同士が検閲し合っている状況だ。テレビ番組のキャスターは、タリバンのメンバーに置き換わっている。タリバンが皆を黙らせているのよ。

2020年にドーハで米国とタリバンが交渉した時の議題のひとつに、女性の教育があった。アフガニスタンの女性は高校までは行けても、大学へは進めない。女性にとっての不幸はまだあるわ。かつては海外と同じように、どの世代の女性もレストランやコーヒーショップへ行き、成長ビジネスに関わり、特に若い世代は自己主張して、デートしたり、若い女性でも独り立ちしてキャリアを積んで、独立した生活を送っていたものよ。今では、仕事からも大学教育からも追いやられている。女性はデートに出かけることができない。女性は自分が望むパートナーを選ぶこともできない。タリバンは若い女性や未亡人を拉致し、組織の戦闘員と無理やり結婚させている。女性に対する肉体的な暴力や性的暴力がさらに横行する状況よ。正義などない。イスラム法では、「ジーナ」という犯罪行為が定められている。女性が婚外の性行為を行うことは罪であり、刑罰を受ける。男性であってもタリバンのメンバーでなければ、罰せられる可能性がある。

男性の権利もまた侵害されている。最初に付き合った女性と必ずしも結婚したいと思わない若い男性も多い。奇抜な格好をしたり、現代アートや変わったことに興味を持つ進歩的な男性もいる。彼らもまた、リスクにさらされている。

私は母と一緒に、家族を出国させるために動いている。いとこの8歳になる一番下の子は、彼女にすがり、「僕がもっとお兄ちゃんなら、お姉ちゃんたちを敵から守ってあげられるのに」と言って泣いているという。彼の姉は10歳、12歳と13歳だ。彼の母親であるいとこも、震えていた。

カブールにいる友人によると、誰も怖がって外へ出ようとしないという。外ではタリバンが睨みを利かせている。彼らの気に障ると殺されてしまうのではないかと、恐れているのよ。異様な沈黙と圧迫感だという。活動する時も、そっと密かに動いている。男性たちは皆、現代的な服装からアフガニスタンの伝統的な衣装に着替えたらしいわ。

私が成長期にあった1990年代に聞いた話では、タリバンが殺害した人々を道端に放置し、家族が葬儀や埋葬をするために遺体を回収することすら許されなかったというわ。遺体は犬に食べられたのよ。最近のカンダハルでも、多くの遺体が道端に放置され、触れることが許されなかった。石を投げつけられた女性もいたというけれど、「この時代に石打ちの刑を行なっている国がまだあるなんて」という感じだわ。

ニュースを見るたびに涙が溢れてくる。とても直視できない。「ここへおいで。面倒を見てあげるから」という人たちに囲まれている私は、幸せ者よ。とても感謝している。

私の心がパニックでつぶれてしまわないように、創造と破壊、そして死も人生の一部だと理解するための特別な場所を、自分の心の中に作ろうと努力しているわ。私だけでなく、おそらく多くの人たちが声をあげて責任を追求し、互いを支え合おうとしている。今こうして心を癒す時間を持てることに感謝している。アフガニスタン人を大切に扱ってくれた米軍の兵士たちにも感謝するわ。米国国民であることも誇りに感じる。でも今この瞬間にカブールにいられないことを腹立たしく感じるし、ショックでもある。カブールへ戻りたい。

from Rolling Stone US