ドキュメンタリー作品『ザ・ビートルズ:Get Back』の公開を記念して、米ローリングストーン誌のカバーストーリーを完全翻訳。ここでは後編をお届けする。

【前編を読む】ザ・ビートルズ解散劇の真実 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見


『ザ・ビートルズ:Get Back』
PART1:11/25(木)/ PART2:11/26(金)/ PART3:11/27(土) 各日17:00より配信スタート
※ディズニープラス加入者の方は配信スタート以降、いつでも好きな時間に視聴可能

アレン・クラインがもたらした絶望

ブライアン・エプスタインの死後の混乱に乗じて、厚かましい4人のニューヨーカーがビートルズに接近してきた。一人目は、ヨーコ・オノという名前の東京生まれのアヴァンギャルド・アーティスト。それから写真家のリンダ・イーストマン、音楽ビジネスのやり手として知られたアレン・クライン、そして風変わりなプロデューサーのフィル・スペクターの4人だ。彼らはそれぞれ個性的で、自信満々だった。4人はビートルズというバンドに恐れをなすこともなく、英国流のやり方に縛られることもなかった。彼らの強引さに惹かれたビートルズは、4人を信頼するようになった。彼らはビートルズのメンバー内に大きな影響を及ぼすようになる。クラインは4人の中で最も名を知られていない人物だが、バンドの最期に一番大きく関わったのは間違いない。

クラインは、サム・クックらアーティストとのビジネス経験を積んでいたものの、悪い評判も立っていた。彼はローリング・ストーンズを手玉に取り、楽曲の権利を持って立ち去った。しかしミック・ジャガーは、朋友であるビートルズを待ち受ける運命には無関心だったためか、特に警告を発することはなかった。ポールによると、ミックは「君らがいいと思うんだったら、彼で問題ないんじゃないか」と言い、彼らの運命を決定付けたという。「そもそも僕らを引き合わせたのはミックだ」とジョンは、1970年にローリングストーン誌のヤン・ウェナーに語っている。「クラインについての酷い噂は耳にしていた。でもストーンズが彼との関係を続けているし、誰も何も言っていなかったので、噂が本当かどうか見極められなかった。ミックは何かあれば黙っているようなタイプではないので、僕としては、クラインで問題ないだろうと考え始めた」


手前からアレン・クライン、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ(1969年)。ビジネス界で悪名高かったクラインはすぐにジョンの心をつかんだが、ポールは「彼では力不足だ」と慎重だった。(Photo by STARSTOCK/Photoshot)

ジョンとヨーコは、クラインとドーチェスター・ホテルで会った。常に自分を導いてくれる人間を求めるジョンは、すぐに彼を気に入った。「直接会ったことがなくても自分のことをよく理解してくれている人間には、自分を任せられるはずだ」とジョンは言う。ジョンがいとも簡単に自分の口車に乗り、ライフワークを任せる契約に署名したことで、むしろクラインの方が驚いたに違いない。クラインにとっては、ネヴィル・チェンバレン(訳註:英国の元首相)以来の、英国の容易な交渉相手だった。クラインが契約を勝ち取ったことで、バンドは絶望的な状況に陥った。

ポールだけは当初からクラインを信用していなかった。「僕はアレン・クラインと契約を結ばなかった。彼を好きになれなかったし、僕のビジネスを任せられる人間ではないと思ったからね。でも他の3人は彼を気に入った」とポールはローリングストーン誌に語った。ポールとしては、義理の父親であるリー・イーストマンをマネージャーにしたかったが、他の3人に拒否された。ジョンは、「彼はわざとそっけなくしている。まるで子どもだ」と協調的でないポールに激怒した。ポールが抱いた疑惑は、70年代に入ってすぐに立証されることとなる。メンバーはクラインを相手取ってそれぞれ訴訟を起こし、彼は脱税の罪で服役した。「最終的に僕らは、アレン・クラインを排除することになった」とリンゴは映画『アンソロジー』の中で語っている。「ちょっとしたお金はかかったけれどね」

しかしクラインは、ビートルズの間に入り込んでいた。1967年夏、メンバーはマハリシと出会う。2年後、彼らは弁護士や会計士と多くの時間を過ごすこととなった。レノンは1970年にローリングストーン誌に語っている。「ポールが、“もうビジネスの話はしたくないから、弁護士と話してくれ“と言うようになった。つまり“わざと長引かせて訴えて、お前を潰してやる“ということさ」

それぞれの結婚生活とすれ違い

1969年3月、ポールとリンダが結婚した。ジョージとパティ・ボイドは、警察署から直接パーティーへ駆けつけた。2人は、ジョンとヨーコを摘発したのと同じ麻薬捜査班に逮捕されていたのだ。ジョンと同じくジョージも、警官が麻薬を仕込んだと主張した。クローゼットのソックスの中からマリファナを発見したという警察に対して、ジョージは「俺は綺麗好きな人間で、散らかっているのが嫌いだ。レコードはレコードラックにしまい、紅茶は缶に入れ、マリファナはマリファナ用のボックスにしまっている」と反論した。

1969年にジョンとヨーコが結婚した時、彼はジョン・オノ・レノンと改名しようとした。1969年の思い切った一歩の始まりだった。しかしジョンとポールは、結婚生活の似合う普通のロックスターではない。彼らの新妻は独立した大人で、キャリアのあるアーティストで、離婚歴のある子持ちの女性たちだった。同世代で、彼らのように男女関係に対して先進的な考え方を持つロックスターは、ほとんどいない。しかし彼らは、ヒッピーの家長制度的な風潮をよそに、一夫一婦制の新たなモデルを模索していた。ポールは、ヨーコとリンダを鼻であしらうミック・ジャガーの言葉を気に入って引用している。「俺は自分の女房をバンドに入れるつもりはない」という言葉は、ジョンとポールが正に逃げ込もうとしていた精神状態を表していた。

ジョンとポールは、急ごしらえのシングル「The Ballad of John and Yoko」をレコーディングした。ジョンが調子に乗ってキリストを引き合いに出したのは、今回が初めてでも最後でもない。ジョンがギターを弾いて、ポールがドラムを叩き、ジョージとリンゴはレコーディングに参加しなかった。2019年にリリースされた『Abbey Road』』50周年記念ボックスに収録されたアウトテイクは、「“リンゴ“、テンポを少し上げてくれ」と言うジョンに対して、ポールが「了解、“ジョージ“」と答える絶妙の洒落から始まる。バックのギターを聴いていると、ビートルズがキャヴァーン時代にレパートリーとしていたセンチメンタルな曲「The Honeymoon Song」が思い浮かぶ。ジョンとポールのやり取りは、ヨーコもリンダもその他の数百万のリスナーも全く気付くことのない、2人だけのジョークだが、彼らがバンドを愛し、お互いを信頼し合っていたことを示す感動的なシーンだ。

ジョンとヨーコは、アムステルダムへ新婚旅行に出かけた。ところが1週間に渡る平和のための「ベッド・イン」のパフォーマンス中に突然、衝撃的な知らせが届く。音楽出版社のディック・ジェイムズが、彼らへの相談もなしに、バンドの楽曲の権利をルー・グレイドへ売り渡す交渉を始めたというのだ。ヒッピー的な理想を掲げたビートルズを餌食にする、音楽業界の最もたちの悪いサメの存在を象徴する醜い事件だった。

ビートルズはゲット・バックのショックから、『Abbey Road』で復活する。どの時代にも一番人気のあるビートルズのアルバムだとされるのは、彼らの温もりを最も感じられる作品だからだろう。ジョンとジョージは、まるでもう二度とバンドのために曲を作ることがないと知っていたかのように、ビートルズを意識した作品を書いた。ジョージは、採用される自分の作品が、いつもアルバム1枚あたり2曲止まりであると認識していた。しかし、ジョージの逆襲が始まる。ジョージ作の「Here Comes the Sun」と「Something」はアップビートのポップな祝福の歌で、ジョンとポールのソングライターとしての地位を脅かし、2人にさらなるステップアップを迫る作品となった。

ヨーコが交通事故による負傷から回復途中だったため、ジョンは病院用ベッドをスタジオへ持ち込み、彼女がコメントや批評をできるようにした。奇妙な状況だが、なぜ誰も文句を言わなかったのか? 4人全員が上手くやって行こうと努力していたのだ。「鼻息を荒くしても仕方がなかった」と、後にポールは話している。彼らはそれぞれ、ソロでの成功を思い描き始めていた。ジョンとヨーコがモントリオールのホテルのベッドで作った反戦歌「Give Peace a Chance」は、英国チャート2位のヒット作となった。リンゴは映画スターへの道を歩み始めた。彼らはもはや、ビートルズだけが自分を表現する唯一の機会だとは思わなくなった。だから彼らは、もうひと夏だけビートルズに打ち込もう、という十分な自信を持てた。「I Want You (She‘s So Heavy)」が、4人が揃って演奏した最後の曲だった。


ラダ・クリシュナ・テンプルのメンバーとジョージ・ハリスン(1969年、ロンドンにて)。同年、彼らは一緒にレコーディングを始めた。(Photo by Trinity Mirror"/Mirrorpix/Alamy)

ジョージは、ラダ・クリシュナ・テンプルと美しい音楽を奏で、シングル「Hare Krishna Mantra」をプロデュースした。No.11になるかと問われた彼らは、「もっと上だ」と答えた(実際は英国で12位にランクインした)。ジョンとヨーコはロンドンで、自分たちのアヴァンギャルド映画の上映会を開催した。ジョンの『Self-Portrait』は、自分のペニスのアップを延々と映し続ける作品だった。ヨーコは「評論家も触れようとはしないでしょうね」と不満顔だった。

ジョンがメンバーに「離婚したいんだ」と言っても、誰もまともに取り合わなかった。ジョンだけではない。ゲット・バック・セッション中には、ジョージやポールも“離婚“を口にした。どうせジョンのいつもの思い付きだろうと思い、メンバーは彼に、公の場で離婚などと発言しないように静止した。ひとつの例は、あるアップルでのミーティング時、ご機嫌な様子で現れたジョンは「私はイエス・キリスト。私は再び戻ってきた」と告げたことがある(リンゴは「わかった。ミーティングは一時休止だ。ランチへ行こう」と応じた)。また、録音されていた別のミーティングの場では、今後のアルバムで曲作りの分担をどのようにするかが話し合われた。ジョージ曰く「結論は、今でもジョークにしか聞こえないが、僕に3曲、ポールに3曲、ジョンに3曲、リンゴに2曲、ということでまとまった」という。

ポールは空路、スコットランドに所有する農園へ飛んだ。生まれたばかりの娘の面倒を見ながら、ゆっくりしようと考えた。しかし彼の希望は実現はせず、1969年の秋は奇妙な展開が待っていた。「ポールは死んだ」という噂が広まったのだ。デトロイトのラジオ局が『ホワイト・アルバム』をバックに、ファンらによる議論を流した。ファンはビートルズのアルバムを分析して、1966年にポールが死亡したという説を裏付ける証拠を探し始めた。ジョンはデトロイトのラジオ局へ電話を入れ、「僕が耳にした中で最もくだらない噂話だ。僕のキリスト発言を誇張して広めた奴にそっくりだ」とクレームを入れた。ヨーコとのシングル「Cold Turkey」とアルバム『Wedding Album』のプロモーションに力を入れたかったジョンは、ポールの話など興味がないようだった。死亡した本人はユーモアのセンスがあったようで、アップルの事務所へ電話を入れて、「これまでで一番宣伝になりそうなネタだろう。僕は、生き続けるという以外は何もせずじっとしているよ」と伝えた。しかしライフ誌の特集記事でポール本人が、「ビートルズのあるメンバーの騒ぎはおしまい」と述べ、以降は誰も噂を口にしなくなった。

『Revolver』後のようにメンバーがある程度の休暇を取れていたら、全ては変わっていたかもしれない。彼らは『Abbey Road』という最大のヒットアルバムを出し、多くのソロプロジェクトをこなした。彼らは妻や子どもを持った。彼らはしばらく仕事から離れ、どこかへ消えてもよかった。しかしバンドが新たなビジネスマネージャーを迎えると、ニューアルバムの制作を要求された。ゲット・バック・プロジェクトはアルバム『Let It Be』として実を結んだが、ビートルズは回復する暇すらなかった。

フィル・スペクターの功罪

一触即発の状況に、冷静にメンバーを励ましてくれる人間を送り込むとすれば、ビリー・プレストン、プロデューサーのジョージ・マーティン、それからリンゴ・スターの名前が頭に浮かぶだろう。彼らは、現状にさらなる負担やエゴを持ち込まないチームプレイヤーだ。精神的に大人で、プロフェッショナルに対応でき、忍耐強く、他人に共感でき、きめ細かい気配りのできる外交家が必要だった。

ビートルズは、フィル・スペクターに賭けた。

彼は、スタジオで銃をぶっ放すような人間ではなかった。彼は、誰かを殴ったりもしない。彼は、フィル・スペクター基準の良心に従って行動していた。一方で、彼にゲット・バック・プロジェクトの記録を託すということは、全て破壊してしまう危険性とも隣り合わせだ。1970年のスタートは、前の冬の議論を再開するところから始める必要があった。メンバーにとって最後の頼りがスペクターだった。彼は60年代に、スタジオの帝王として見事な作品を作り出してきた。スペクターに任せるのは、ナポレオンを呼んで自分の村を支配させるようなものだった。ただし、立つ鳥が跡を濁さない場合に限るが。

スペクターはクラインと関係があったが、ジョンは全面的に信頼していた。スペクターは、1970年1月のシングル「Instant Karma」をプロデュースした際にわずか1日で仕上げた実績を持ち、ジョンも彼のやり方を気に入っていた。「朝食の間に書き上げた曲を、ランチタイムにレコーディングして、ディナー時には仕上がっていた」とジョンは自慢げに語った。ジョンは「Instant Karma」で、英国BBCのテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演した。ビートルズのメンバーが単独で出演するのは初めてのことだった。ヨーコはバンドのメンバーとしてスツールに腰掛け、歌いも演奏もせずに、ただ編み物をしていた。

ジョージ・マーティンとエンジニアのグリン・ジョンズは、1969年にゲット・バック・セッションの録音テープから何とかアルバムとして仕上げようとしたものの、バンド側が拒絶したため幻に終わった。しかしクラインとしては、何か新たな商品を至急送り出す必要があった。バンドと美味しい契約を結んだばかりの彼は、早速行動を起こす。「クラインは、バンドが分裂状態にあろうが、とにかくビートルズのニューアルバムを店に並べる必要があった。ゲット・バック・セッションのテープが、彼が使える唯一の素材だったのは明らかだ」とピーター・ジャクソン監督は言う。


英国サリーにある自身所有のブルックフィールド・エステートでトラクターに乗るリンゴ・スター(1969年撮影)。物件は後に、スティーヴン・スティルスへ売却された。(Photo by Tom Blau/Camera Press/Redux)

3月に米国人プロデューサーのフィル・スペクターがアビー・ロードへやってきて、ゲット・バック・セッションのテープから多くのオーバーダブを繰り返し、アルバムとして仕上げる作業に取り掛かった。この作品は、後にアルバム『Let It Be』として世に出ることとなる。スペクターが発掘した「The Long and Winding Road」はポールによるピアノのデモ曲で、ジョンが隣でベースを弾いていた。スペクターは派手なオーケストラを重ねつつ、ジョンのつたないベースは残そうと決めた。最終的に、スペクターのアイディア通りの形でリリースされている。冒頭から2分の“You left me standing here“と歌う箇所でポールが、仲間の不器用なベースに笑いをこらえようと必死な様子がわかる。ポールが、自分の曲をスペクターがどう手を加えるかについて相談されたことはなかった。スペクターの作業が進む間、彼は数ブロック先のキャヴェンディッシュ・アヴェニューにある自宅の新しいホームスタジオで、リンダと一緒に4トラック・テープに曲を録音していた。ほとんどはカジュアルなアコースティックの小曲で、中にはアビー・ロードで録音されたバラードの名曲「Maybe I‘m Amazed」も含まれる。ポールは、テープの楽曲をソロアルバムとしてすぐにリリースしようと決めた。まるで、ゲット・バックの仕上げにいつまでかかっているんだ、とでも言いたげな決断だった。

フレッシュでのびのびとしたソロレコーディングのエネルギーを満喫したポールは、明るくウィットに富んだ「Every Night」「Junk」「That Would Be Something」などの楽曲を次々と仕上げていった(マッカートニーは2020年9月、同作の50周年を記念したハーフスピード・マスタリングのリイシューをリリースしている)。彼はソロアルバムのタイトルを『McCartney』として、ビートルズの『Let It Be』と同じ週に急ぎリリースする計画を立てた。対立構造が生まれるのは明らかだった。また、リンゴのソロアルバム『Sentimental Journey』がリリースされる時期にも重なる。リンゴは、小さい頃から馴染みのある「Stardust」などのスタンダード曲を、優しく歌い上げている。彼曰く、「母親のために歌った」という。

デリケートな交渉が必要で、言うまでもなく好ましくない状況だ。3月31日、ジョンとジョージは、リンゴに意地の悪い手紙を持たせてポールの自宅へ向かわせた。封筒には「僕らから、あなたへ」と書かれ、ソロアルバムのリリースを延期するよう求めた内容だった。手紙は「このような事態になり残念だ。個人的な恨みなどではない」と締めくくられ、最後にジョージが“ハリ・クリシュナ“と加えた。ポールは激怒し、いつも仲介役だったリンゴは戻ってくると、ポールには自由にやらせようと2人を説得した。

ビートルズの終焉

翌日リンゴはアビー・ロードへ戻り、「Across the Universe」「I Me Mine」「The Long and Winding Road」のオーバーダビング用のドラムパートをレコーディングした。スペクターのスタジオでの横暴ぶりは目に余るようになり、さすがのリンゴも断固とした態度で彼に落ち着くよう諭すほどだった。

しかし、ビートルズのアルバムの仕上がりを聴いたポールの激怒ぶりに比べたら大したことはない。ジョージ・マーティン曰く「僕もとても頭に来たが、ポールの方はもっと怒っていた。2人とも、アルバムが完成するまで何も聞かされていなかったし、僕らの知らないところで勝手に進められていた。アレン・クラインがジョンを操っていたのさ」という。

クレインとアップルは、「新たな局面を迎えたビートルズのニューアルバム」として『Let It Be』を大々的に売り出した。『McCartney』のリリース日に合わせてポールが準備したQ&Aプレスキットには、「ビートルズとの決別」と書かれていた。なぜか? 「個人的なすれ違い、ビジネス上の意見の不一致、音楽性の違いなど、さまざまあるが、最も大きな理由は、自分の家族とより良い時間を過ごしたいということ。一時的か永遠かといえば、わからない」とポールは言う。ビートルズとしてまた音楽を作る予定はあるか、との問いには「ノー」という答えだった。

ポールは4月の正式発表前に、プレスリリースの存在についてローリングストーン誌へ伝えていた。「アルバムのリリースに合わせて、告知を準備している」とポールは、ヤン・ウェナーに明かした。「でも正式発表までは内容を伏せておく。説明が難しいからね。サプライズの方がずっと素敵だろ」

他の3人のメンバーは、素敵なサプライズを歓迎できる状況ではなかった。3人だけでなく、他の誰も喜ぶ人間はいなかった。世界中の1面トップに彼のプレスキットの内容が踊った時、ポールはショックを受けたと主張した。彼を含めた4人は、かつて同じようなことを主張した。しかし今回は、誰からも否定する動きがない。ジョンは記者に対して「ポールの動向が知れてよかった。彼が生きていることがわかって嬉しい。記事にはとにかく“彼は辞めたのではなく、僕が辞めさせた“と冗談半分で僕が語っていた、と書いてくれ」とコメントした。ジョージはさらにウィットを効かせて「新しいベースプレーヤーを探す必要がありそうだ」と答えた。

しかし事態は収拾しなかった。メンバーの誰も、ビートルズ抜きの人生など考えられない。また、道楽でのソロ作品など想像できなかった(ただし、バンドへの手厳しいしっぺ返しの場合は除く)。彼ら自身も、これで終わりだと思いたくもなかった。「ビートルズとして一緒にやって行くのかどうか、僕にはわからない」とジョンは言う。「復活か消滅か。今は様子を見ている。僕はおそらく復活してくれると思う」

バンド内でのコミュニケーションは、ほとんどがメディアを通じて行われるようになった。しかし公の場でお互いに怒りをぶつけ合いながらも、バンドに関してのコメントは現在進行形で話していた。ポールの記者発表から数日後、ジョンはウェナーに「この2年間、僕は、ビートルズには将来がないと思っていた」と語った。しかし同時に、自分たちはまだビートルズのメンバーだと強調した。「彼にわがままは許されない、という現実がある。だからややこしい状況になっているのさ」とジョンは言う。ジョンの見方によれば、ポールは脱退を許されない、ということになる。結局ビートルズは彼のバンドだった。「かつて彼がヘソを曲げた時にどうなったか。いろいろな計画や出演予定が狂ってしまった。いつも同じことで、今回は規模が大きかったというだけさ。それだけ僕たちが大きくなったということ。いつものことさ」


ロンドンで挙式に臨むマッカートニー夫妻(1969年撮影)。リンダの娘ヘザーと、ポールの飼い犬マーサも参列した。(Photo by Alamy Stock Photo)

常にバンドの反体制側にいたジョージですら、バンドの将来について積極的に語っている。5月初旬に出演したニューヨークでのラジオのインタビューで彼は、ジョンとポールとの緊張関係について、冷静に答えた。「少々悪意を持ってしまっているのだと思う。お互いに意地を張り合っているだけだ。子どもの喧嘩さ」とジョージは言う。しかしビジネスに関しては、クラインに反抗するポールの態度を「彼自身が解決すべき個人的な問題」と表現した。なぜか? 「多数決でクラインをパートナーと決めたからさ」とジョージは説明する。「3対1でクラインに決めた。ポールが気に入らないと言うのであれば、とても残念だ。グループとしてのビートルズと会社としてのアップルのために、ベストだと思うことを僕らは心がけている。ポール個人や彼の親類・家族のために努力しているのではない」というジョージは、企業家としては楽観的だった。「僕に言わせれば、決して良い感じではなかった」と言うが、あまり説得力がない。「アップル・フィルムズもアップル・レコーズも、会社は順調だ」

ビートルズはグループとして存在している、とジョージは強調した。同時に、ソロ活動も必要だ。「それぞれがソロアルバムを作れる環境が理想的だと思う。妥協する必要がないしね。ポールは自分のやり方で曲を作りたいと思っている。ジョージのやり方ではない。そして僕の場合は、みんなのやり方で作り上げたい、と本当に思っている。僕らがそれぞれアルバムを1枚か2枚作った時点で、既に目新しさは失われているのさ」

ジョージは、ビートルズが辿ったであろう将来像を、大まかだが現実的に描いていた。彼にとっては過去10年間と何も変わらない、“きっと上手く行く“(we-can-work-it-out)テーマだ。「大きな結果を得るために、僕らは小さなことを犠牲にせざるを得ない。一緒に作品を作れば、音楽的にも経済的にも大きな結果を得られる。もちろん、精神的にも。ビートルズの音楽というのは、とてつもなく大きな世界だ。僕らが最低限できるのは、年間3カ月を犠牲にして、アルバムを1枚か2枚出すことだ。ビートルズとしての作品を一緒に作らないのは、とても身勝手だと思う」とジョージは語った。

映画『レット・イット・ビー』は、1970年5月20日にロンドンで公開された。ビートルズのメンバーは誰もプレミアに姿を現さず、メッセージも寄せなかった。ピカデリーサーカスには、メンバーを見ようと多くの人々が集まったが、レッドカーペットを歩くVIPの福袋が配られただけだった。レッドカーペットには、シンシア・レノンとジェーン・アッシャーという元ビートルズの元妻や元彼女に、映画『ハード・デイズ・ナイト』のリチャード・レスター監督、ハリ・クリシュナのメンバー、ローリング・ストーンズのメンバーらが集った。アップルのスタッフは全員招集されたものの、自分たちの上司がいったいどこにいるのか、誰も知らなかった。ただ周囲を見回してメンバーの姿を探すだけで、イベントに参加したことに罪悪感すら覚えていた。「とても悲しく、ものすごく不愉快だった」と、広報担当のデレク・テイラーは後に書いている。「イベント後の数日間は、“プレミアへは行ったのか?“とメンバーから尋ねられるのではないかと、びくびくしていた」

しかし、誰からも連絡はなかった。4人で揃って映画を鑑賞することもなければ、アルバムを聴くこともない。4人が一堂に会することは、二度となかったのだ。

当時とは違う受け止め方ができるはず

2021年、『ザ・ビートルズ:Get Back』がいよいよ公開される。しかしハッピーエンドを迎えることはない。ビートルズのストーリーの中で、解散が一時的な迷いだったのか、あるいは必然だったのか、疑問が残る。「“レット・イット・ビー“のプロジェクトは、ある時代の一コマを切り取る目的だった」とジャクソン監督は言う。「しかし撮影した映像やアルバム用の録音は、1970年5月に世界へ向けて公開されることとなった。フィル・スペクターの手をすり抜け、アレン・クラインが現れ、そしてビートルズが解散した。音楽は1969年1月で止まっている。だが、当時とは違った特別な目で鑑賞できる」

『Get Back』は、同じシーンも当時とは違った見方をされるだろう。「4人が一緒にいる時は、ビートルズではない」とジャクソン監督は言う。「我々の知るあこがれの存在でもない。メンバーが集まると、14か15歳の頃からずっと一緒に過ごしてきた普通の4人組だ。ハンブルクやキャヴァーン・クラブの思い出話をしたり、ハンブルクのトップ・テン・クラブで使っていたエコーユニットの話をしている。彼らはインタビューを受けている訳ではない。共通の経験を分かち合ってきた、どこにでもいる4人の仲間なのだ」

ヨーコがギターアンプの上に腰掛けていたから解散したという話はおかしい、とポールがコメントするシーンがある。ジャクソン監督も、同じシーンに着目していた。長い間ブートレッグ版の音声でしか聴いたことのなかった会話が、フィルムに録画されていたことが判明したのだ。「全てが映像として収められていた」と監督は証言した。「間違いなく言えるのは、映像は説得力があるということだ。会話を聴くのも重要だが、話している彼らの表情を見られるのは、とても説得力がある」

バンドの消滅から50年経った今なお、世代や文化を超えて世界中の人々が、彼らのストーリーの中に自分たちを重ね合わせるのはなぜだろうか? ビートルズの最大かつ究極の謎は、『Get Back』でも、他のどの映画でも解決されないだろう。キャリアの全てを賭けて巨大な文化的神話に挑んできたジャクソン監督でも、上手く説明できない。「ビートルズの音楽があまりにも偉大だったため、彼らの存在は単なる象徴でしかない。私は音楽学者ではないし、専門知識もない。しかし言えることは、たとえ2トラックだろうが4トラックだろうが8トラックだろうが、彼らの歌う曲には喜びが感じられるということだ。そして今後何世代にも渡り、決して弱まることなく、決して忘れ去られることもないだろう。彼らが与えてくれる歓喜は伝染しやすく、今や人類全体の心の一部となっているのだ」

From Rolling Stone US.



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ドキュメンタリー作品『ザ・ビートルズ:Get Back』
■監督:ピーター・ジャクソン
■出演:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター
11月25日(木)・26日(金)・27日(土)
ディズニープラスにて全3話連続見放題で独占配信スタート
公式サイト:https://disneyplus.disney.co.jp/program/thebeatles.html


公式写真集 『ザ・ビートルズ:Get Back』 日本語版
ページ数:240ページ
サイズ:B4変型判(302mm x 254mm)
ハードカヴァー仕様(上製本)
詳細:https://www.shinko-music.co.jp/info/20210129/


ザ・ビートルズ 
『レット・イット・ビー』スペシャル・エディション
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ユニバーサル・ミュージック公式ページ:https://sp.universal-music.co.jp/beatles/