日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年7月の特集は「八神純子」。1978年にデビューして80年代前半、今で言うシティポップ、シティミュージックが1つのムーブメントになっていたときの立役者の一人である彼女。そんな彼女が、2022年6月24日、全米「女性ソングライターの殿堂」で日本人初の殿堂入りを果たした。パート2では八神純子本人をゲストに招き、「私とアメリカ」をテーマに自薦した楽曲やその軌跡を語る。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは八神純子さん「黄昏のBAY CITY」。1983年のシングル、アルバムは同じ1983年に出た7枚目『FULL MOON』に入っておりました。今月の前テーマはこの曲です。

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2022年7月の特集は「緊急特集 八神純子」。先週は私が前説ということで、露払いをさせていただきましたが今週からご本人に登場していただきます。こんばんは。

八神純子:どうもこんばんは、よろしくお願いします!

田家:先週は収録の日に体調が……ということで。

八神:はい、すみませんコロナにかかってしまって、今だったら笑えるんですけどね。かからなければかからない方がいいんですけども、誰でもかかってしまうんだなというのが実感です。

田家:殿堂、表彰の連絡が来たときはどんなふうに思われました?

八神:連絡はメールでいただいたんですけども、正直意外でした。それと同時に賞とかヒット曲とかお金とか男の人とか追っかけちゃダメなんだなと思いました(笑)。

田家:なるほど(笑)。

八神:父が言っていたことはその通りだなと(笑)。

田家:まさかアメリカの女性ソングライターの殿堂から表彰されて、殿堂入りするなんて夢にも思わないでしょうしね。

八神:夢にも思わないですよ。今まで、ポプコンというコンテストで賞をいただいて。その賞はあまりにも簡単にいただけちゃったんですね。

田家:優秀曲賞。

八神:入賞、優秀曲賞。2つも一気にいただいて、私はそういう星の下に生まれたのかななんて思ったら大間違いで(笑)。それ以来全然賞なんていただかなくて、ここまで大きな賞は、例えばレコード大賞をもらおうって思ったこともあったんです。

田家:あ、思ったことあった?

八神:アルバム賞がほしいと思ったことがあるんですけど、それには大きな事務所に入らなきゃいけないんだみたいなこともあって。ポリティカルな部分がくっついてくるので、そういうのはやめようと思って。でも、今回の受賞に関してはポリティカルなものが一切0なんですよ。

田家:入りようがないですもんね。

八神:私が働きかけていたわけでもないですし、アメリカでアルバムを出したのは40年前ですしね。それもこの10年、日本で頑張ろうと、そして私は日本人なんだから日本語を綺麗に歌う、そんなシンガーでいたいなというそれだけだった。自分しか歌えないものを作り、ヒットも追いかけない、自分しか歌えない曲の内容も含めて。オリジナリティを追いかけてきて、夢中で走っていたこの10年。よく走ったねえって言われたような受賞でした。

田家:今週から3週間はご本人に登場していただいていろいろ話を伺っていこうと思うのですが、今日は受賞記念ということで「私とアメリカ」というテーマで曲を選んでいただきました。その中にこの「黄昏のBAY CITY」がある。あらためてお聴きいただいて、なぜこの曲を選んだのか、お話を伺いたいと思います。1983年のシングル「黄昏のBAY CITY」。





田家:先週この曲を流したときに今回の受賞のきっかけになったと申し上げてしまったのですが、それはちょっと早とちりだったみたいですね。

八神:新聞でもそう報じられたものもありました。新聞記者の方はそういうふうに思いたかったんだろうなって。ちゃんと取材も受けたんですけどね。これは直接のきっかけにはなっていない曲なんです。ただ、アメリカで私の歌で1番聴かれているのはこの曲だろうなとは思うんですけどね。八神純子って検索したらこの曲を聴いている人がいっぱいいることが分かって。例えば、私と同じ条件でこの賞をもらう人が最後に何人か残っていて、この中から誰にしようかなといったときに「あーそう言えば「黄昏のBAY CITY」みんな聴いてるよ」というところでもしかしたらプラスに働いている可能性はあると思います。

田家:この曲を書いたときをどんなふうに思い出しますか?

八神:シティポップで今話題に上っているアーティストの方たち、みんな同じように「え? 今頃?」みたいなのがあったと思いますけども。みなさんがどう考えているか分からないんですけど、その頃はアメリカを追いかけていたんです。アメリカのポップスを聴き、そしてあんなふうに曲を書きたいなとか、あんな音楽を作りたいなと、アメリカへの憧れがこの曲になっているわけなんですよね。ですから、もしかしたら40年経って逆輸入しているようなところもあるのかなと思うんですけれども、ただ日本人って素晴らしい部分があって……。

田家:今日はそんな話を伺っていこうと思っております。今週はテーマに沿って選曲をしていただけませんか?ということで、6つの課題を出させていただきました。次にお聴きいただくのは「洋楽を意識して書いた曲」。さっきの「黄昏のBAY CITY」もそんな1曲だったんでしょうが、そういうテーマで選んでいただくとしたらなんですか? とお訊きしたら、1983年のシングル「ラブ・シュプリーム〜至上の愛〜」を選んでいただきました。

八神:「宇宙戦艦ヤマト」の映画で初ラブシーンがあるということで、書いてほしいとお願いをされて。私はバーブラ・ストライサンドのバラードが大好きだったんですね。ずっと追いかけて、ああいうバラードを書きたいなと思っていて、私が彼女になりきって書いた曲だったんです。

田家:なりきる?

八神:なりきって書いて、なりきって歌いました。

田家:なりきりというのはどういうふうになっていくんですか?

八神:「スター誕生」という映画があったじゃないですか。デビュー直前にプロデューサーの奥島さんという方がいて、中島みゆきさんのプロデューサーでもあった方なのですが、その方に「純子ちゃん、1つの映画絶対観ておいた方がいいから」って連れていっていただいて。「スター誕生」のバーブラ・ストライサンドが歌っている姿を観て、たぶん最初で最後、立てなくなったんです。

田家:感動で。

八神:その感動がずっとサステイン状態で私はデビューして、バラードを歌うときはバーブラ・ストライサンドのイメージで歌っていたんですね。

田家:デビュー以来ずっとという感じだった?

八神:そうです。かなりのところ。あるところでパタッと止まるんですけどね。ドナ・サマーとバーブラ・ストライサンドが「No More Tears(Enough Is Enough)」を一緒にデュエットしたときに、バーブラ・ストライサンドに対して自分が苦手なことやっちゃダメだよと思ったんです(笑)。これドナ・サマーに負けてるじゃんと思って、そのときに私が思ったのは、私は苦手なことを絶対やらないようにしようってそれは覚えていますけどね。

田家:1983年ってアルバムが3枚出ているでしょ。『LONELY GIRL』、『恋のスマッシュヒット』、『FULL MOON』。で、シングルも4枚出ているんですよね。

八神:すごい数ですね。

田家:デビュー5年でアルバムが7枚でシングルは16枚出てたっていうのをあらためて思ったりもしたのですが。

八神:あの頃は普通だったんですけどね。1年に1〜2枚のアルバムを出し、シングルは最初の年なんて3枚も出ていますから。

田家:そういうことに対して疑問を思ったり、どうしてなんだろうと思ったりしないで活動していた時期がずっとあったという。

八神:そういうものだと。素直な私というね(笑)。

田家:そういう時期を経て、洋楽のような曲を書こうと思って書いたのがこの曲となるんですね。

八神:そうですねー。ただ、洋楽に憧れている私はずっとあって、デビュー曲の「雨の日のひとりごと」。実はこの曲をあげようかなと一瞬思ったんですけども、B面に入っている「何故だかつらいの」、萩田光雄さんがアレンジをしてくださったんですけども、私が洋楽を目指したというのをすごくよく分かってくださったかのような洋楽アレンジをしてくださったし、私の中ではずっとあったんです。邦楽を聴かない自分でしたし。

田家:今日のテーマの2つ目、洋楽を意識して書いた曲。1983年「ラブ・シュープリーム〜至上の愛〜」お聴きいただきます。





田家:バーブラ・ストライサンドになりきって書いた曲。

八神:そうなんです。次の小節まで声を伸ばしているんですよね。伸ばしすぎなぐらい伸ばしているんですけども、バーブラ・ストライサンドの癖だったのでそのままやっていますね(笑)。

田家:歌い方を意識していた?

八神:うん、そうですね。私は自分が歌うために曲を書いていて、今も同じなんですけどね。とにかく歌いたい。それが最初に1にも2にも3にも歌いたい。そのために何をしたらいいんだろうか。たぶん曲を書くことが私をいろいろなところに持っていってくれるだろう、その順番だったので。

田家:この「ラブ・シュープリーム〜至上の愛〜」もシングルになっているんでしょ?

八神:今聴いていただいたのは2バージョン目なんです。最初のバージョンは歌詞も違って、映画の中の挿入歌とされたもので。やはり制作側の意図とかが全然違うんですね。映画カット、私のスタッフと全然違って。私は映画の方が大好きだったんです。

田家:あ、そうなんですか(笑)。

八神:そうなんですよ(笑)。オーケストラと同時録音したんですけどね、同録ってなかなかなくて、弦の人たちも全員入って宮川泰さんが指揮をされて録ったんですけども。それこそ、バーブラ・ストライサンドでしょ。とにかくバーブラ・ストライサンドにこの頃は憧れて歌っていました。

田家:そういう曲でした。テーマは洋楽を意識して書いた曲でした。今日、3つ目のテーマ。洋楽に負けまいと思って書いた曲」。でもずっとそうやって書いてきた曲になりますね。

八神:そうですね。ほぼ本当に洋楽に負けない、洋楽みたいな曲を書こうと思って。

田家:あえてこういう課題、「洋楽に負けまいと思って書いた曲」に選ばれた曲が何かはご本人から発表していただきましょうか(笑)。

八神:いろいろな意味で負けまいと思った意味が、この「みずいろの雨」の中には入っているんですけども。まず最初にこの曲がなかったら私はたぶんレコード会社からもクビになって、事務所からもクビになっていただろうな(笑)。もう名古屋に帰れって言われたんで。

田家:あ、そうだったんですか?

八神:そうなんですよー。未だに誰に言われたかもしっかりと覚えていて、状況も覚えてる。

田家:顔が浮かびましたけど、何人か(笑)。

八神:はい! 放送終わったら教えますけども(笑)。負けたくないということで「みずいろの雨」を書いたというのと。あとは洋楽と言っても、ラテン音楽が大好きだったんです。

田家:だって高校3年生のときはチリ音楽祭なわけですもんね。

八神:そうなんです。で、セルジオ・メンデス、バーブラ・ストライサンドとセルジオ・メンデス、全然世界が違うんじゃないかなんですけど、セルジオ・メンデスが大好きで。なので、ボサノバとかそういうリズムばかり書いていたんです。

田家:「雨の日のひとりごと」もそっち寄りですもんね。

八神:はい、そうです。何かともうボサノバ、ボサノバって。「みずいろの雨」もボサで書いたんですけど、アレンジをする時点でこれはサンバにしようよということになって、サンバになったんですけどね。

田家:そのアレンジは大村雅朗さんです。

八神:はい。そのボサノバを歌ったり書いたりというのは、誰にも負けない自信があったんです。というか、すごく理解してるって思い込んでいて。私はもしかしたら南米に生まれることになっていたのかもしれないって信じちゃっていた(笑)。南米のチリに10代最後に行ったんですけど、これもたまたまじゃなくて運命だったんだろうと思ったんです。

田家:導かれるように行った。

八神:はい、そうなんです。

田家:なるほどねー。そういうことも含めて負けない。

八神:これは誰にも負けないと思って、「思い出は美しすぎて」も書きましたし、「みずいろの雨」も書きましたし。

田家:「洋楽に負けないと思って書いた曲」。1978年の5枚目のシングル「みずいろの雨」。





田家:先週ちょっとお話したんですけども、ソニーの松田聖子さんのディレクターが大村雅朗さんの名前を知ったのは八神純子さんの仕事でだったと話をしているんですよ。

八神:そうだったと思います。

田家:八神さんと仕事をするようになったとき、彼は脚光を浴びる前ですもんね。

八神:これからというアレンジャーがいるから、1回仕事してみようよということになって紹介していただいて。で、この「みずいろの雨」が大ヒットになったのでお互いにとってすごい出会いだったんですよね。

田家:大村さんがいなかったらこういう曲にならなかった点はあるんですか?

八神:もちろんです。大村さんとの出会いがあったので今日の八神純子がいるんだって、私は思ってる。

田家:サンバホイッスルはどちらだったんですか?

八神:「思い出は美しすぎて」のときから使っていたんですけど、「スター誕生」の映画を観に連れていってくれたプロデューサーが「サンバホイッスル入れようよ」と。でも、サンバホイッスルなんてレコーディングスタジオになくて。体操の先生とか警察官が吹く普通の笛ありますよね。実は、あれを使ったんです(笑)。

田家:なるほどね(笑)。この曲があって、負けまい、負けなかったということで今の八神さんがあるという1曲でもあります。で、80年代に入って、1986年に結婚されてアメリカに移住されるわけですね。さっきもお話した洋楽は必ずしもイコールアメリカではなかったところがあったんじゃないですか。

八神:うん。私は自分が洋楽志向だったというところから、「あ、これ本物じゃなかったな」と思ったところがあったので。洋楽ってほとんどコード進行というか、コードの数がないんですよ。1曲の中で使われているコードの数って、今の音楽はちょっと変わってきたんですけども、その頃はグルーヴで持っていっていたので限られたコードの数で、展開は何でされているかと言ったらボーカリストの力だった。例えば、スティービー・ワンダー。彼なんてワンコードでも全然展開していける。グルーヴとボーカルの力だと思うんですけども。なので、私にはコードの数がある程度必要だなと思ったときに洋楽志向だなんて言っていたのは間違いだなと、だんだん気がついてくるんです。やっぱり日本人でありながらアメリカのポップスに憧れて、そこからもいろいろ吸収をして、曲を書き、歌っていこうと思い始めたのがちょうどこの頃です。

田家:当時、1985年、1986年結婚されて向こうに行かれるときは、レコード会社がアルファムーンでアルバムが3枚出ていて、『COMMUNICATION』、『純』、『ヤガマニア』。アルファムーン時代はどんなふうに思い出すんですか?

八神:このときはとにかく私がほとんど人の音楽を聴かなくなってました。

田家:必死だった、夢中だった。

八神:オリジナリティを追いかけ続けていて、流行っている音楽とか聴かない方がよかった。それに惑わされないように、自分に合ったメロディって何なんだろう。声と曲とのマッチングだけじゃないのかなと私はその頃に思っていたので。この3枚はアルファムーンレコードで出したものなんですけど、大好きで。『COMMUNICATION』は今、海外でも人気があるアルバムになっているんです。

田家:あらためてアルバムを見ていて、こんな曲があったんだと思ったのは「ジョハナスバーグ」。こんなことを歌っていたんだと思いました。人種差別を。

八神:人種差別を歌にして、レゲエでやっているんですけども今もすごく好きな曲、今も歌っているんですけどね。これは自信を持っておすすめできる曲です(笑)。

田家:アメリカの音楽関係者の方たちはこの頃のアルバムを聴いたりしているんですよね。

八神:聴いていると思います。授賞式でも『COMMUNICATION』が流れていましたね。アメリカのティーンの男の子が『COMMUNICATION』を買ってくれた動画をYou Tubeで流しているんですよ。「日本のJunko Yagamiの買ったんだぜ、今日届いたんだぜ、これから開けるから見てろ」とか言って、You Tubeでパッケージを開けるところからちゃんと見せていて。思わずうれしくなったので「Thank you for buy my Album」ってコメントを載せたんです。そしたら、「え!? 本当にJunko Yagami!?」ってすぐその若者から返事が来て、「そうそう、私、私。ありがとう!」って言ったらすごい喜んでくれて。

田家:日本ではこの頃が1番、なんて言うんでしょうね、自分の場所がなかなか見つけられない時期のようにも見えてました。

八神:この頃からアルバムの売れ具合も良くなくて、コンサートもなかなか人が入らなくなった。ただ、私にしてみたらここを通らないとダメだと思った道だったんですね。

田家:その中で次のテーマ、課題というのは「洋楽に勝ったと思えた曲」、「向こうに行ったから書けた曲」。選ばれたのはこの曲ですね。1992年のアルバム『Mellow Cafe』の中の「Eurasian」。



Eurasian / 八神純子

田家:この曲を書かれたときのことは覚えていらっしゃいます?

八神:よく覚えています。私の書く曲はサビが高いところに行く、1番盛り上がるのがありがち。私だけじゃなくて一般的にそういうものなんですけど、アメリカに行って「なんだ、サビが全然盛り上がらなくてもいいんじゃないか、高いところに行かなくてもいいんじゃないか」と。キャッチーで耳に残るもの、それがサビであるべきだと考えが変わったんです。ですから、この曲で初めてと言っていいくらいサビで盛り上がらない。

田家:でもスケール感がある。

八神:はい。そういう意味で向こうに行って、いろいろな曲を聴きながら自然に脳の中にはいろいろなアイディアが入っていくわけですから、その中で生まれた曲だったと思います。

田家:ユーラシアもテーマになっていたんでしょ? ユーラシア大陸、Eurasianという。

八神:そうですね。子どもたちがユーラシアンだったので、実はそこからユーラシアンをいつか書きたいなと思っていたんです。

田家:アメリカ人でもないし、日本人でもないし、イギリス人でもないしみたいな。

八神:ユーラシアン。

田家:『Mellow Cafe』は名作アルバムだなと思っておりますが、これは向こうに行ったから書けた曲そのものということになりますね。

八神:あとはこのピリオドからアレンジもやるようになったので、全然前とは違った音楽の作り方をしていました。

田家:向こうに行かれて、1987年から1994年までアルバムが6枚、向こうでの生活も含めてだんだん日本では情報が入ってこなくなった時期でもあるわけで。その頃はどういう人間関係の中で仕事をされたりしていたんでしょう。

八神:アメリカで向こうのミュージシャンにお願いをされて、アルバムの中でゲストボーカリストとして歌ってくれという仕事をやっていたり、あとバッキングボーカルの仕事がすごい勉強になりましたね。別にギャラがいいわけでもなんでもないんですけど、むちゃくちゃ勉強になりました。

田家:いろいろなタイプの人たちとやるわけですもんね。

八神:そうなんです。そのときに私がボーカリストとして吸収したものが今かなり役立っています。

田家:そのときに日本のシーンは見えたりしていたんですか?

八神:全くなかったです。

田家:頭から消えていた?

八神:英語を勉強したい気持ちもあったので、まず日本には年に1回も帰ってませんでしたからね。アメリカにいる日本人はしっかりと日本人社会の中で生きている方たちが本当に多いんです。ですから、日本にいるかのような生活ができる。特にロサンゼルスなんて食材に関しても日本の大きなスーパーがあるので、なんでも手に入るし、テレビも日本のテレビ番組が観れますし。私の場合は、全くそういうところから離れた生活をしていたので、その頃の私の動画を観ると完全にアメリカ人ですよね。

田家:なるほど。次のテーマで選んでいただいたのが、「向こうで褒められた曲」。向こうの人たちにとっての純子さんは日本でスターだった人とは思ってない?

八神:音楽業界、ミュージシャン仲間の中でそれはありました。でも、子どもたちの学校行事とかに行くと、それは全くないわけで、お母さんは元シンガーだったみたいなそのぐらいの感じで(笑)。

田家:この曲はどんなふうに褒められたのか、曲の後にお聞きいただこうと思うのですが、「向こうで褒められた曲」。1983年のアルバム『FULL MOON』の1曲目「Follow Me」。





田家:これはどんなふうに褒められたんですか?

八神:これは褒められてうれしかった曲だったんですけども、アメリカのバンガードというレーベルでアルバムを1枚出したときに、向こうのシンガーソングライターたちの曲を私が歌ったんです。そのうちの1人で私が大好きだったフレイニー・ゴールドという女性のライターがいて、彼女自身も歌う人なんですけど、「Hey Kid」という彼女の歌を私が歌って。その彼女に「この曲大好き! こっちでヒットだよ」って言われて、ごく単純に喜んじゃったという(笑)。

田家:ヒット曲っぽいポップな曲ですもんね。

八神:その頃のアメリカ、特に西海岸に合っていたかなと。なんとなくカントリーっぽいんですよ。

田家:オリビア・ニュートンジョンとか歌いそうですもんね(笑)。

八神:そうそうそう! 私ちょっとこのカントリーな感じのところが好きじゃなかったんです、これ。

田家:あ、当時は好きじゃなかったんだ。

八神:もうその一言でコロッと変わりました(笑)。

田家:そりゃそうですよね(笑)。

八神:単純にフレイニーが褒めてくれるんだったらなんて思って。

田家:これはまさに逆輸入で日本に入ってくるタイプの曲になるかもしれませんね。

八神:そうですねー。

田家:今日最後のテーマがありまして「あらためて知ってほしい曲」。90年代半ばくらいから何をやっているんだろうなという状態になって、さっき話に出た向こうでいろいろな人たちのコーラスに参加したりしていた。そういう中であらためて知ってほしい曲として選ばれたのがこの曲なんですね。Rhythm Logicの「Drunk on Love」で、Rhythm Logicはロサンゼルスのナンバー1ドラマー、マイケル・ホワイトのスーパーバンドで、モーリス・ホワイトのいとこだった。

八神:そうなんです。彼は私にリズムを教えてくれた人でした。ツアーも日本に一緒に来ているんですよ。

田家:純子さんが80年代半ばぐらいかな。「私はドラムを聴いて歌うタイプのシンガーじゃなかったんだ」と言われたことがありましたね。

八神:うん、もうこれで全然変わりましたね。というか、バーブラ・ストライサンドでしたから私のアイドルは。ですから、バックが何をしてようがずっと声が伸びていたりするわけです。でも、それをやっていると結局グルーヴができないんですね。グルーヴを作り出すためにはどこで声を落とし、どこで声を引き上げるか。それだけなんです。マイケル・ホワイトと仕事をしている間にそれをすごく教えてもらって、「そこはそんなに伸ばしちゃダメ」って言われて、厳しい人なんですよね。

田家:で、マイケル・ホワイトさんはこのレコーディングで純子さんが参加したときのことを「彼女は完璧でした、リードボーカルとコーラスを1時間ぐらいで録音したんだ」と。

八神:いやーとにかくリズムの師匠に「アルバムで歌ってみる?」って言われたとき、「え! あれだけ文句をいっぱい言われたのに呼んでくれるの!?」と思って、すごくうれしくてむちゃくちゃ練習しました。

田家:練習して行ったから、1時間で終えられた。

八神:そうなんです。

田家:彼の話の中に「彼女のアルバムのリズムトラックは僕のスタジオでレコーディングしたんだ」というコメントがあって、彼女のアルバムは何だったんだろうと思ったのですが、純子さんのアルバム?

八神:そうです、そうです。その頃は自分のスタジオワーク、アルバム作りは結構主流になっていて、アミーゴスタジオという大きなスタジオも経営していたんです。

田家:スタジオを経営されていたんだ。

八神:そうだったんです。でも、ちょうど音楽が変わっていくところで、そこの経営に失敗しました(笑)。

田家:失敗したんですか(笑)。

八神:そう、今だから言えるんですけど、大きなスタジオがいらなくなっていったんですよ。ですからボビー・コールドウェルがそのスタジオの小さな一室を借りて曲を作ったり、レコーディングしたり。あとは、ジョン・レノンの息子、ショーン・レノンが私のスタジオの一室を借りて音楽を作っていたり。

田家:なるほどねー。もう本当にロサンゼルスの音楽シーンにどっぷりと言いますか、ロサンゼルスの音楽シーンそのものだった時期があるということですね。で、あらためて知ってほしい曲、Rhythm Logicの「Drunk on Love」これはバーシアの1994年ヒット曲カバーです。



田家:たしかにこういう形で紹介しないと、洋楽ファンの中にも知らない人が多いでしょうからね。

八神:そうですね。これは私がすごく勉強にもなったし、マイケルが「1、2、3、4 でとらないで歌ってごらん」って言って、「1…… 2…… 3…… 4……」2拍に1回ぐらいの数え方で歌ってごらんって言われて、「えー!」なんて思って。そんなアプローチを日本で教えてくれる人いなかったし、それを今思い出しました。

田家:この曲は2000年なわけですけども、この後に2001年の9.11があるわけでしょ。そのときのことは今の純子さんの中でどういう経験になっているんですか?

八神:全てがストップしてしまった出来事でしたから、9.11の直後に決まっていたんですけども怖くて移動もできなくなっちゃいました。ですから、そこから活動休止ということで。

田家:全くもう日本には何の情報も入ってこなくなった。

八神:はい。次の瞬間何があるか分からないということで、窓を閉めきってしまったようなときが始まりましたね。

田家:で、10年後に日本での活動を再開されるわけで、この話は来週ということになります。アメリカでのいろいろな経験があっての今回の受賞、やっぱり特別なものがありますね。

八神:ありがとうございます! 潔く捨てるものがあって、そしてこの賞に繋がっているだなとつくづく思っています。

田家:あらためておめでとうございます。来週もよろしくお願いします。

八神:ありがとうございます、よろしくお願いします!


左から八神純子、田家秀樹



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」日本人として初めて全米女性ソングライターの殿堂入りを果たした八神純子さんの軌跡を辿る4週間。今週は2週目、ご本人をお迎えして「私とアメリカ」というテーマでお送りしました。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。



竹内まりやさんと八神純子さんは同じレーベルメイトだった時期があるんですよね。デビューも同じ1978年なんです。70年代の終わりから80年代にかけて女性アーティスト、特に洋楽をちゃんとやりたいと思っているアーティストにとってはとても居づらい時期が日本にあった。アイドル扱いされたんですね。八神純子さんのライブも親衛隊の男の子が「純子ー! 純子ー!」って声を張り上げて、はちまきをしながら拳を振り上げていた時期がある。竹内まりやさんも芸能人運動会とかテレビのバラエティものに出されて、その中で一旦シーンから身を引いて、家庭に入って活動を休止したんです。八神さんはそれをご主人とアメリカで求めた。

そういう2人が今日本でシティポップという新しい括りの中で違う脚光を浴びている。世界からもそう見られていることが、音楽の流れっておもしろいなと思ったりもしております。アメリカでの成功を夢見なかったアーティストは80年代、日本にいなかったでしょうね。そんな中で日本で生まれた洋楽、シティポップがアメリカで評価されている。今回の女性ソングライターの殿堂入りはあらためていかに日本音楽シーンにとって画期的なことか思いながら、今週の彼女の受賞の感想でした。来週からは日本での活動再開以降の話をいろいろ伺っていこうと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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