元沖縄開発庁長官の上原康助(うえはら・こうすけ)氏が6日午前10時16分、呼吸不全のため沖縄市登川の中頭病院で死去した。84歳。本部町出身。 沖縄戦の体験を原点に全沖縄軍労働組合(全軍労)の委員長として軍雇用員の待遇改善や反戦平和運動に取り組み、衆院議員10期、県選出の国会議員として初の国務大臣を務め、沖縄の振興開発や基地問題、戦後処理の解決に尽力した。

 告別式は10日午後2時から3時30分、通夜は7日に、沖縄市松本7の5の3、サンレー中部紫雲閣で行われる。喪主は妻・美津子(みつこ)さん。

 上原氏の死去により、1970年に実施された戦後初の国政選挙で誕生した県選出の衆参国会議員7人全員がこの世を去った。

 上原氏は1932年生まれ。日米安全保障条約が調印された51年に北山高校を卒業し、米軍沖縄地区工作隊(DE)に就職した。59年に解雇通告を受けたのを契機に労働運動に強い関心を寄せた。61年、全沖縄軍労働組合連合会を結成し、初代委員長に就任した。以来、県内労働運動のリーダーとして、63年には全軍労に組織を統合し、70年の大量解雇撤回ストライキでは、粘り強い労働運動で、待遇改善を勝ち取った。

 70年の国政選挙では、日本社会党から立候補し、衆院議員に初当選。県選出国会議員では最多の10期連続当選を果たした。93年に誕生した細川連立内閣では沖縄開発庁・北海道開発庁・国土庁長官に就任した。直後の衆院本会議の代表質問では日米安保の見直しについて言及し、内外に波紋を広げた。

 衆院議員時代は基地返還跡地対策を柱とした軍転特措法の成立に関わったほか、厚生年金の格差是正、戦争マラリア補償、沖縄振興特別措置法改正など戦後処理問題にも尽力した。

 大田昌秀県政下の98年に、自民党県連による知事選擁立への動きがあり、県内革新政党や労組、経済界を巻き込んだ騒動に発展した。騒動の渦中には政策研究会「未来21・沖縄」を結成し、日米安保体制を容認した上で基地を計画的、段階的に2分の1に減らす「ハーフ・オプション」構想を提起した。従来の考えにとらわれずに基地問題の解決を図る「沖縄・もう一つの選択」をまとめた。98年に社民党を離党し民主党入りした。

 2000年6月の衆院選で社民党公認候補として出馬した東門美津子氏に敗れ、同年12月に政界を引退した。02年には県人初の勲一等旭日大綬章受章。07年に琉球新報賞を受けた。