新年早々の根岸森林公園は、数日前に積もった雪が広場に残り、子供たちが雪やボールで遊び、笑い声の絶えない憩いの場となっています。時刻は西日が眩しい夕刻時。子供たちの歓声の向こうに、背の高い建造物のシルエットが逆光の光から浮かび上がります。 公園内には不釣り合いなほど巨大な建造物。近づいてみると、柵に囲まれて入れない廃墟です。いよいよ不思議な光景に出会しました。正体は「根岸競馬場一等馬見所」。そう、ここは競馬場の跡地だったのです。

公園に残存する国内初の常設型西洋式競馬場一等馬見所

子供たちの歓声が聞こえる公園内に聳(そび)える3塔のコンクリート建造物。
子供たちの歓声が聞こえる公園内に聳(そび)える3塔のコンクリート建造物。
横浜駅から横浜市営バス103系統に揺られて「山元町4丁目」で下車。米軍基地との間の坂を登っていくと、目の前に一等馬見所が現れる。
横浜駅から横浜市営バス103系統に揺られて「山元町4丁目」で下車。米軍基地との間の坂を登っていくと、目の前に一等馬見所が現れる。

根岸競馬場一等馬見所、あるいは一等スタンド。この存在は関東在住の廃墟好きならば「ああ、あれか」と思い浮かべられるほど有名な廃墟です。7階建のRC構造で、3つの塔が備わり、それぞれの塔には目玉のように丸窓が二つ並んでいます。一見すると、物言わぬ3体の巨人が公園と子供たちを見下ろしているかのような光景で、蔦が絡まる壁面といい、蓋をされたアーチ窓といい、映画に出てくるちょっと怖い館みたいな雰囲気があります。

1月6日に積もった残雪がまだ残る公園。白銀の中に聳える姿もかっこいいと思う(妄想)。
1月6日に積もった残雪がまだ残る公園。白銀の中に聳える姿もかっこいいと思う(妄想)。
夕刻時の公園から一等馬見所を眺める。3つの塔が凛々しくもあり、ちょっと怖くもあり……。
夕刻時の公園から一等馬見所を眺める。3つの塔が凛々しくもあり、ちょっと怖くもあり……。

もっとも公園の主役である子供たちは、この馬見所の存在が当たり前すぎるのか、全然怖がる様子もなく、脇目も降らずに遊興に講じており、興味を覚えるのは私みたいな人か、初めて森林公園へ来たような方々でした。最初は「何これー?」と訝しげに見上げる人も、横浜市が設置した説明板があるので「ここが競馬場だったのか」と、新たな発見をして帰っていきます。

道ゆく人は巨大な廃墟が当たり前と感じる地元の方々が多いのか、さほど気に留めることなく通り過ぎていく。ただ、子供が止まってじっと見上げているのが気になった。子供の目線の先には何が見えているのだろう。
道ゆく人は巨大な廃墟が当たり前と感じる地元の方々が多いのか、さほど気に留めることなく通り過ぎていく。ただ、子供が止まってじっと見上げているのが気になった。子供の目線の先には何が見えているのだろう。

さて、ここに一等馬見所があるのは競馬場であったからですが、いつまであったかというと、戦争が激化する1942(昭和17)年までです。元々は江戸時代末期の1866(慶応2)年、居留地の外国人向けに競馬場をとのことで、幕府が高台の根岸村へ日本初の常設競馬場を完成させたのが始まりです。その背景には生麦事件、薩英戦争と攘夷派による事件が連続し、英仏などとの不穏な空気が漂う中、居留地外国人側から競馬場を造成してほしいとの要望を幕府が受け入れました。

幕末の揺れ動く時代に誕生した根岸競馬場は、明治天皇の行幸が何度も行われ、各国の要人や政財界の社交場という位置づけとなり、発展を続けていきます。現在も行われる「天皇賞」や「皐月賞」は、根岸競馬場が最初でした(根岸競馬場は、後年「横浜競馬場」と改称された。皐月賞は改称後)。

一等馬見所の前には市が設置した説明板がある。
一等馬見所の前には市が設置した説明板がある。

戦時中は高台に立地して横須賀の軍港が一望できるという理由から、海軍省が競馬場を接収し、事実上競馬が開催不可能となりました。競馬場としては役目を終え、一等と二等の馬見所は海軍の機密文書を印刷する印刷所や通信関連の設備となります。そして終戦後は米軍に接収され、継続して米軍関連の印刷所となり、一等馬見所は1階がボーリング場、馬場はゴルフ場となって、在日米軍のレクリエーション施設が整備されました。

1960年代になると米軍から一部施設の接収解除が開始され、一等と二等の馬見所建物は1981(昭和56)年に接収解除。横浜市は国から馬見所の土地と建物を購入しますが、一等馬見所と隣接した二等馬見所は1988(昭和63)年に解体されました。

J・H・モーガンが設計したRC構造の一等馬見所を柵越しに観察する

二等馬見所が解体されてしまったのは惜しまれますが、一等馬見所は近代化産業遺産に指定されています。現在は侵入を阻止するためにフェンスと防犯カメラでガードされ、最低限の保存処置しかされておらず、朽ちるのに任せている状況です。2021年の報道では、近隣の米軍根岸住宅地返還に伴い、一等馬見所の補修を含めて周辺の整備を検討していくとありました。現在は荒れ放題な外観ですが、ひょっとしたら近いうちに保存整備に向けて何かしら動きがあるかもしれませんね。

今回は新春だから近場に行ってみようかと軽い気持ちで出かけたのですが、2001年頃に大学の卒制で廃墟作品を撮るため訪れたことがあり、20数年ぶりの再訪となりました。ま、上空からは空撮の行き帰りにしょっちゅう通過しているのですがね。マジマジと地上から見るのは20数年ぶりなのです。

大阪芸大写真学科の卒制時に制作した写真。卒制は廃墟がテーマで、4x5カメラ[トヨフィールド45A]にコダックE100VSを装填して撮影した。それから20年経った今回のカメラは1億200万画素という一眼ミラーレス機で手持ち撮影したのだから、この20年のカメラの進化は目まぐるしい。
大阪芸大写真学科の卒制時に制作した写真。卒制は廃墟がテーマで、4x5カメラ[トヨフィールド45A]にコダックE100VSを装填して撮影した。それから20年経った今回のカメラは1億200万画素という一眼ミラーレス機で手持ち撮影したのだから、この20年のカメラの進化は目まぐるしい。

そこで、大きな違いに気がつきます。前回は一等馬見所の米軍基地側に巨大な鉄骨屋根が張り巡らされて圧巻だったのに、それが無い! 調べると、2000年代初めに撤去されたそうなのです。鉄骨の無くなった一等馬見所は、ちょっと寂しげな雰囲気がしました。

2001年の卒制で撮影した時は屋根の鉄骨が健在だった。この屋根のさらに上に貴賓室があった。撮影時は目隠しのためなのか工事用の仮囲いをされていた。
2001年の卒制で撮影した時は屋根の鉄骨が健在だった。この屋根のさらに上に貴賓室があった。撮影時は目隠しのためなのか工事用の仮囲いをされていた。
違和感を感じたのは屋根の鉄骨が無かったからである。そのかわり1階部分も観察できるような柵となり、観察するには現在の姿の方が良い。背後にランドマークタワーが望めた。
違和感を感じたのは屋根の鉄骨が無かったからである。そのかわり1階部分も観察できるような柵となり、観察するには現在の姿の方が良い。背後にランドマークタワーが望めた。

気を取り直して建物を見ていきましょう。一等馬見所はRC構造(鉄筋コンクリート)で、東京丸の内ビルを担当したアメリカ人建築家J・H・モーガンが設計し、1929(昭和4)年に竣工。3つの塔はそれぞれエレベーターホールであり、当時としては大変珍しい構造でした。森林公園に掲示されている竣工時の写真と設計図によると、鉄骨屋根上面の最上階部分には貴賓室を配しており、富士山まで望める眺望であったとか。また収容人数を増やすため、隣接して二等馬見所も同じような構造で建設し、根岸競馬場は「東洋一」と言われるほどの設備と威容となりました。

★市が設置した説明板(抜粋してスマホで撮影)★

幸いにも一等馬見所の正面は公園となっているので、全体をパノラマで見られます。手前は芝生だからより一層気持ちいい。夕焼けに染まったコンクリートの壁面は、淡いアンバーな色味に変化し、塔の陰影が浮かび上がります。よくよく観察すれば細かな装飾が施されており、特徴的な円窓は月桂樹の冠のように縁取られていました。

塔の円窓はフクロウの目にも見えてくる。よくよく見ると月桂樹のように縁取られているが、サイドの円窓は破損したのかのっぺらだ。
塔の円窓はフクロウの目にも見えてくる。よくよく見ると月桂樹のように縁取られているが、サイドの円窓は破損したのかのっぺらだ。
こちらは上写真の反対側の塔部分。窓ガラスが破損されている。両サイドの塔はものすごく蔦が絡まっていて、このまま放置されていくとそのうち緑の塔になってしまいそうな勢いだ。
こちらは上写真の反対側の塔部分。窓ガラスが破損されている。両サイドの塔はものすごく蔦が絡まっていて、このまま放置されていくとそのうち緑の塔になってしまいそうな勢いだ。
中心部の塔。こちらは蔦が絡まっていない。円窓と梁のデンティル(凸凹の装飾)が夕陽に映える。
中心部の塔。こちらは蔦が絡まっていない。円窓と梁のデンティル(凸凹の装飾)が夕陽に映える。

等間隔で並ぶアーチ窓、梁部分にはデンティルと呼ぶ凸凹とした装飾、欄間を連想させる明かり取り。細部まで凝った造りに、寒さも忘れてしばし見惚れてしまいます。さすがにここまでがっつりと見上げる人は他にいないようで、周囲の公園利用者は日が暮れてさっさと帰宅の途についていきます。

夕日が沈んだ。闇に没するまでの時間は色温度がどんどん落ちていき、被写体の色味も変化して廃墟撮影にとっては一番美しい時間と考えている。塞がれたアーチ窓が剥がれ落ち、窓枠がチラッと覗かせている。
夕日が沈んだ。闇に没するまでの時間は色温度がどんどん落ちていき、被写体の色味も変化して廃墟撮影にとっては一番美しい時間と考えている。塞がれたアーチ窓が剥がれ落ち、窓枠がチラッと覗かせている。
誰が忘れたのだろう。手袋が柵にかかっていた。余談だが、立入禁止の柵も洋館にあるようなタイプなので、映り込んでも雰囲気がある。
誰が忘れたのだろう。手袋が柵にかかっていた。余談だが、立入禁止の柵も洋館にあるようなタイプなので、映り込んでも雰囲気がある。
柵越しに観察する。やはり閉ざされた窓とドアの向こう側が気になる。塔の部分にアーチ扉が残るのは、かつて屋根上部にあった貴賓室への出入り口であろう
柵越しに観察する。やはり閉ざされた窓とドアの向こう側が気になる。塔の部分にアーチ扉が残るのは、かつて屋根上部にあった貴賓室への出入り口であろう

気がつけば公園は歓声も減り、一等馬見所も日が暮れてモノトーンの世界へと没していきます。夜になると3つの塔のシルエットが闇に浮かび、朝日を浴びて塔の窓が煌めいていく。その繰り返しを何十年も根岸の高台で過ごしてきました。細部はだいぶやつれていて破損箇所も多く、補修する箇所は多そうに見受けられます。この巨大な建物は今後どうなっていくのか気になるところです。

一等馬見所の端部分にあるコンクリートの擁壁と欄干。これらは競馬場時代からありそうな雰囲気がする。
一等馬見所の端部分にあるコンクリートの擁壁と欄干。これらは競馬場時代からありそうな雰囲気がする。
同じく擁壁と欄干。説明板に掲示された竣工時の写真を見ると、これと同じ形と思える欄干が写っているのだが……。
同じく擁壁と欄干。説明板に掲示された竣工時の写真を見ると、これと同じ形と思える欄干が写っているのだが……。
二等馬見所のあった側の側面部。こちら側は現在ミニバスケット場となっている。バスケットの邪魔にならぬよう注意して観察しよう。この構造からして渡り投下か何かで二等馬見所と繋がっていたのだろうか。梁が切断されたように見える。
二等馬見所のあった側の側面部。こちら側は現在ミニバスケット場となっている。バスケットの邪魔にならぬよう注意して観察しよう。この構造からして渡り投下か何かで二等馬見所と繋がっていたのだろうか。梁が切断されたように見える。
柵沿いに側面部を観察する。ダクトや換気扇、通用扉が見受けられる。バックヤードなのかなと思ったが、説明板の設計図を見ると竣工時は整然と窓が並んでいたようだ。となると旧海軍接収〜米軍接収時に改装されたのだろうか。壁面には窓を埋めたような跡が残る。竣工時の説明板があったおかげでよく観察できた。
柵沿いに側面部を観察する。ダクトや換気扇、通用扉が見受けられる。バックヤードなのかなと思ったが、説明板の設計図を見ると竣工時は整然と窓が並んでいたようだ。となると旧海軍接収〜米軍接収時に改装されたのだろうか。壁面には窓を埋めたような跡が残る。竣工時の説明板があったおかげでよく観察できた。

そうそう、現在は柵で完全にシャットアウトされている一等馬見所は、かつて映像に登場したことがありました。YMOの散会ライブ「プロパガンダ」の映像では、米軍から返還されたばかりの一等馬見所の内部でロケを行っています。1階のホール、スタンド、エレベーターの最上階にある巻上機といった、今では絶対に見られない内部のシーンが登場し、外観では公園に整備される前の広場や、解体される前の二等馬見所、米軍基地の時代に設置されたと思しき給水塔となど、返還直後ならではの「生の姿」が映されています。

YMOのプロパガンダを観てから根岸競馬場跡地へ訪れてみるのもいいかもしれませんね。

取材・文・撮影=吉永陽一

吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。