天正10年(1582)5月15日、光秀は安土城にて、徳川家康の饗応役を信長に命じられる。この時、信長が光秀に不満を持ち突然キレて「丹波と近江滋賀郡の領地を召し上げる!」と伝えたので、光秀は叛旗を翻すことを決意した──というのは江戸時代の軍記物がもとになっているエピソードなので、信憑性は薄い。 ただ、信長から饗応役を解任され、秀吉の中国戦線の援軍を命じられたのは事実。本能寺の変をピークとする、光秀の一世一代の大勝負は、安土城から始まったのだ。

築城の頃はまだ敵だらけだった

天下人の城、という言葉が最も似合うのは、やはり安土城ではないか。

スケールだけでいうと、秀吉の大坂城、家康の江戸城の方が圧倒的だが、これらは城の中でも別格という気がする。両者が天下を手中に入れてからの築城ゆえ、ほぼ「プラン通り」の城を実現できたはず。

一方の安土城の築城は、天正4年(1576)。長篠の戦いで武田軍を打ち破ったものの、頭ひとつ抜けたぐらいで、敵対勢力はまだまだ各方面に健在。緊張感あふれる戦国まっただ中の時代に築かれた城だけに、「これから天下を獲るのはオレだ」という、信長の強烈な自意識を感じさせてくれる。

城内に入るとまず出くわす大手道。
城内に入るとまず出くわす大手道。

安土城入口から山上へと延びる、ほぼ一直線の大手道。両脇には、羽柴秀吉、前田利家など重臣達の屋敷跡(ただし“伝”。確固たる証拠はない)。まるでレッドカーペットか花道。家臣達がズラリ並ぶ中を、天下人・信長が現れる姿が脳裏に浮かぶ。

足元の石段には、こんなものも。

石材の一部として使用された石仏。
石材の一部として使用された石仏。

石仏はそこかしこに見つかる。「神や仏を足蹴にするとは、魔王・信長ならでは」と語られることもあるが、そこまでの意図はなかったような気がする。あるとすれば、無神論者的な合理主義で、「ちょうどいいサイズの石材だから」ぐらいでは?

この大手道の光景は、安土城を象徴する光景として紹介されることが多いが、ちょっと待って欲しい。本能寺の変直前、天下獲りレースの優勝確実の時期ならともかく、この城が築かれたのは、いわゆる「第三次信長包囲網」の時代。石山本願寺も、その向こうに控える毛利家もバリバリに健在で、八上城の波多野秀治、信貴山城の松永久秀など、畿内では親信長から反信長へと鞍替えする勢力も続出していた頃。

安土城は俗に「戦う城ではなく、見せる城の始まり」と語られることがある。もちろんそうした一面がなかったわけではないだろう。ただ、この城で戦う気がなかったのかというと、全くそんなことはない。むしろやる気マンマンだ。

それは大手道だけを見ていたのではわからない。安土城の中枢へと歩を進めるとともに、次第に明らかになってくる。

城内で最も手堅い防衛ライン

大手道はやがて、左へと折れる。少し登れば、尾根にたどりつく。人工的に平坦化したここが、伝織田信忠邸跡。丁字の分岐になっていて、右が本丸方面。左が摠見寺跡だ。

安土城縄張図。現地案内板より。
安土城縄張図。現地案内板より。

左右それぞれがピークになっていて、この織田信忠邸が少し低い鞍部にあたる。ということは、この場所で侵入してきた敵を、両ピークから挟み撃ちにすることができる。「一城別郭」という単語が頭をよぎる。戦う城らしくなってきた。

まずは本丸を攻め落としに向かうことにする。

伝織田信忠邸跡から本丸方面。
伝織田信忠邸跡から本丸方面。

しばらくは木立の中、大手道と似たような、幅広の石段を登ってゆく。すると──。

黒金門。ほぼ直角に二度折れ曲がる。
黒金門。ほぼ直角に二度折れ曲がる。

ほれぼれするほど見事な食違い虎口。石垣により幅を狭め、折れで勢いを止める。ゆるやかに登りになっているのも、攻め手にとってはジワジワ来る「いや〜な感じ」だ。

そして、この食違い虎口を突破した先に。

二ノ丸の石垣。高さは3〜4mほどか。
二ノ丸の石垣。高さは3〜4mほどか。

ヌリカベか。今は雑木に覆われているが、あそこにズラリと城兵が並んで待ち受けているわけだ。虎口を突破してホッと一息つく暇も与えず、一斉掃射。この容赦ないスタイル。いかにも信長っぽい。

登城路は右に、さらに左へ折れる。その先に二ノ丸への急な石段が伸びている。

左斜め奥に伸びる石段の先が二ノ丸。
左斜め奥に伸びる石段の先が二ノ丸。

動線は当然、二ノ丸の入り口あたりで幅狭になっている。写真正面奥には、櫓台のような独立した構造物も。その上に立ち、今来た道を振り返ってみる。

右奥に折れた向こう側が、先ほどの黒金門を抜けた正面の二ノ丸石垣。
右奥に折れた向こう側が、先ほどの黒金門を抜けた正面の二ノ丸石垣。

この二ノ丸南側の一角は、通路と呼ぶべきか、一つの曲輪と呼ぶべきか。いずれにしても、黒金門で二度の折れ、その先で右、左、左と、都合三回も折れてようやく二ノ丸へたどり着く。縄張図で見ると、その凝りに凝った構造がよくわかる。とにかくこの黒金門〜二ノ丸入口までの一角が、安土城の最重要防衛ラインなのだ。

縄張図再掲。
縄張図再掲。

二ノ丸〜本丸間も防御は万全

二ノ丸には、「織田信長公本廟」という墓地がある。愛用の刀や烏帽子などが埋葬されているとか。天正11年(1583)1月3日、秀吉が建立。既に山崎の戦いで光秀を討ち、清州会議を経て後継の座を着々と固めていた頃。恐れ多くも安土城は主君の城なので、決して再建しようとしなかったという秀吉。代わりに廟を建て遺品を埋め、主君への忠誠を見事にアピール。清州会議に信長の孫・三法師(当時3歳)を抱いて登場した秀吉らしい、「いかにも」な演出だ。

織田信長公本廟。
織田信長公本廟。

ここから振り向くと、先程の二ノ丸入口が見える。

信長公本廟から二ノ丸入口方面。正面が櫓台。
信長公本廟から二ノ丸入口方面。正面が櫓台。

ここでもキレイに90度に折れていて、四方から敵を叩ける構造。写真左奥、木立の向こうに見えるのが天主台の高石垣だ。

その天主台の石垣脇を抜けて本丸へ。
その天主台の石垣脇を抜けて本丸へ。
天主台の隅石部分。ノミ跡が随分荒々しい。
天主台の隅石部分。ノミ跡が随分荒々しい。
広大な本丸跡の平坦地が見えてきた。
広大な本丸跡の平坦地が見えてきた。

本丸は、黒金門から先で最も広い曲輪。ここに多数の兵を駐屯させ、二ノ丸へ適宜補充する。そしてその直下の最重要防衛ラインで、ひたすら敵を叩きまくる。万一、二ノ丸まで侵入されても、二ノ丸入口で四方から袋叩き。さらにその先の本丸入口は幅も狭まっているので、容易な突破は不可能だ。

ざっと、信長の構想は、こんなところではないだろうか。実に見事。考えつくされている。やはり、「戦う気はマンマン」だったのだ。

そして謎に満ちた天主台へ

さて、いよいよ、五層七階の天主が立っていたという場所へ。この入り口にも実は、抜け目のない構造になっていた。

天主台入口を下方から見たところ。
天主台入口を下方から見たところ。

きちんと右に直角に折れた虎口になっている。最後まで徹底抗戦の構えだ。「もし本能寺ではなく安土城に信長がいたら、どう戦っていたのか」と想像してしまう。いや、そうなると光秀も叛旗を翻さなかったのだろうか。

安土城天主から遠くに琵琶湖を望む。
安土城天主から遠くに琵琶湖を望む。

かつては船で接岸できる登城口もあったとか。そして琵琶湖を挟んで対岸には、光秀の坂本城があった。湖の向こうから船の大群で迫ってきたら、いかにも絵になりそう。舳先に立ち、「敵は安土城にあり!」と叫ぶ光秀。

でもまあ、これだけ見通しが良すぎると、城にたどり着く前に確実に壊滅させられそうだ……。

「戦う城」からは離れるが、建物はなくなった“台”だけになっても、安土城天主には見るべき価値がある。

約15m四方の安土城天主。
約15m四方の安土城天主。

周囲をぐるりと石垣で囲まれて凹んで見えるが、実はこれは地下部分だ。その上の地上階部分の面積は、二倍半もあったとか。長い年月で土台部分が崩壊してしまったのだろう。

安土城天主には、建物の中心を貫く心柱がなかった。その証拠がこちら。

礎石群のセンターがひとつだけ欠けている。
礎石群のセンターがひとつだけ欠けている。

高層の日本建築では珍しい。吹き抜け構造の美しさにこだわったからか。前代未聞の日本建築を、という意気込みなのか。「大黒柱=オレだろ」という、信長の思想の表れなのか。欠けた礎石から、いろんな想像がふくらむ。やっぱり城跡には建物なんてないほうが楽しいなあ、なんて思ってしまう。

在りし日の安土城天主の絢爛豪華っぷりは、安土城郭資料館に行けば1/20スケールの模型と、安土城天主 信長の館の原寸大5〜6階天主で見るべし、だ。

●安土城郭資料館
9:00〜17:00、月・祝翌日休。JR安土駅から徒歩1分。入館200円。

●安土城天主 信長の館
9:00〜17:00、月(祝の場合は翌)休。JR安土駅から徒歩30分。入館610円。

「一城別郭」の摠見寺跡へ

天主から来た道を織田信忠邸まで引き返し、「一城別郭」のもう一つのピークへ。

縄張図再掲。
縄張図再掲。
信忠邸跡から数m登ってゆく。
信忠邸跡から数m登ってゆく。

摠見寺跡の名で呼ばれているが、その造りは完全に城。南側の斜面はコレだ。

ほぼ垂直に近い野面積み石垣。
ほぼ垂直に近い野面積み石垣。

元々の自然地形の急斜面と一体化していて、物凄い落差。これを城と呼ばずしてなんと呼ぶのか。いや、寺か。

漆黒の三重塔も立っている。

摠見寺三重塔。国の重要文化財。
摠見寺三重塔。国の重要文化財。

享徳3年(1454)に滋賀県湖南市の長寿寺に建てられたものを、安土城の築城時に移築したとか。摠見寺は、安土城とともに信長が建立した寺。城内に寺を建てる発想自体、かなり斬新だ。

本堂跡からは、天主とはまた別方向、城西側の眺望が開けている。

摠見寺本堂跡から西の湖の眺め。
摠見寺本堂跡から西の湖の眺め。

絶景かな、と呑気に感心しているだけでは甘い。天主からは見えない死角を、もうひとつの別郭がカバーしているのだ。その意味からもやはり、摠見寺跡も城だといえる。いや、寺であり城であった、というのが正しいだろう。

ただしこちらの縄張は割とシンプル。段曲輪上に、いくつかの平坦地が並んでいるだけで、本丸側にあったような縄張上の技巧は見られない。

尾根伝いに西へと下ってゆくと仁王門。

入母屋本瓦葺きの仁王門。こちらも国の重要文化財。
入母屋本瓦葺きの仁王門。こちらも国の重要文化財。

滋賀県甲賀市の柏木神社からの移築。寺の山門でありながら、城の西を守る城門でもある。坂本城のように、城門が後世に寺や屋敷に移築されたものはよくあるが、その逆で、こうして現存しているものはかなり珍しいのでは?

山門を下りきって道なりに進むと、大手道脇の伝羽柴秀吉邸跡が見えてきた。グルっと回って、玄関口に戻ってきたことになる。

伝羽柴秀吉邸跡を下から見上げる。
伝羽柴秀吉邸跡を下から見上げる。

写真右奥の尾根のピークが、主君・信長が座する天主だ。“伝”なので確固たる証拠はないのだが、仮にここに屋敷を構えていたら、宴会とかやりづらかっただろうな。「おい、今すぐダッシュで天主に来い!」なんて急な呼び出しとか、信長ならやりかねない……。

『安土城』詳細

安土城
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦/営業時間:8:30〜17:00(季節変動あり)/定休日:無/アクセス:JR東海道本線安土駅から徒歩20分

取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂) 写真協力=南雲恵里香(風来堂)