大学職員 安定したポジションから起業家へ転身 ライラックファーマ株式会社 代表取締役 須佐 太樹


北海道大学で産学連携に携わる職員が、大学の研究成果を基に起業したのは42歳のときだ。
当時は、任期付きではない北大の正規職員。
安定を取るか夢を取るか、そんな選択の中で選んだのは起業だった。


創薬の効率化

須佐社長が、創薬ベンチャー・ライラックファーマ株式会社を設立したのは2016年。同年6月に北海道大学を退職した。現在、北大の外部アドバイザーも兼務している。

同社は現在、マイクロ流路デバイスを北大から技術導入し、それを使ったナノ粒子製造技術によって新しいナノ粒子製品・装置の共同開発をするのが事業の柱だ。進行中の共同開発は、化成品大手の株式会社日本触媒(大阪府大阪市)との化粧品素材開発や自動車部品大手の住友理工株式会社(愛知県名古屋市)との装置開発など国内大手を中心に複数にわたる。活用されている技術は、ライラックファーマが北大から特許の使用許諾を得て事業化しているナノ粒子製造用のマイクロ流路「iLiNP®(アイリンプ):innovative Lipid Nanoparticle Production」流路で、北大の渡慶次学(とけしまなぶ)教授と真栄城正寿(まえきまさとし)助教らが開発した。医薬品分野では癌や希少疾患(難病)の治療薬、ワクチンなどの試薬が効率的に試作でき創薬の加速が期待できるという。


ポスドク一万人計画の時期に

須佐社長は、京都大学工学部で工業化学を学んだ後、東京大学薬学部の大学院に進んだが修士2年の夏に中退、国立遺伝学研究所(静岡)で研究活動を再開する。その後、総合研究大学院大学(総研大)生命科学研究科遺伝学専攻の博士課程に入学し、国立遺伝学研究所の嶋本伸雄教授の指導を受け行った転写制御メカニズムの研究で2002年に博士(理学)号を取得した。文部科学省が1996(平成8)年度から2000(平成12)年度の5年計画として策定した「ポスドク一万人計画」の時期と重なる。

博士号取得後はアカデミアでの研究職の道も考えたが、ポスドク一万人計画で生き残り競争激化が予想される中、自分が好きなテーマで基礎研究に没頭することが将来難しくなると予感し研究者の道には進まないことを決意。研究開発以外のビジネスに役立つスキルを身につけるために、北海道のバイオテクノロジーの研究支援などを行う民間企業に就職。技術営業を志望して入社したが、その後、会社の方針により東京大学と共同研究するため東大へ出向することになった。

しかし研究開発職以外を希望していたこともあって、出向から約半年後に出向元企業を退職。古巣の国立遺伝学研究所で助手(現在の助教)のポジションを得てじっくりと再就職先を探していたところ、札幌在住のコンサルタントから北大の知的財産本部(現在の産学・地域協働推進機構)の任期付きポジションを紹介された。知財の仕事に新たなスキルとしての魅力を感じ2005年に転職。当時は大学が法人化へと舵を切っていたころである。

北大では、バイオや材料分野の知的財産管理や産学連携業務に携わり、国立研究開発法人科学技術振興機構では、技術移転業務に携わる人材(目利き人材)の専門能力の向上を目的にした研修「目利き研修」の講師も2013年から務めていた。


最先端技術が社会を切り開くサイエンスがおもしろい

研究者の道を進まないと決めたときから、常に頭の片隅にはいずれ起業したいという思いがあったようだ。北大在籍中には何度か北大発ベンチャー設立に協力する機会があったが、様々な理由によりそのベンチャーに移籍するところまでには至らなかった。また自ら北大発ベンチャーを計画する機会もあったが、それも当時のビジネス環境から頓挫した。それでも、あきらめずにその機会を探っていた。

「北大では産学連携コーディネートの他、発明の発掘、技術移転、契約の仕事など幅広く担当してきました。最先端の技術が社会を切り開くサイエンスがおもしろかったのです。研究成果を知るとどう膨らませ、それをどう事業化するか考え、世界がどう変わるのか考えると楽しかったのです。起業はそのための有力な手段の一つとしてずっと意識していました。しかし2014〜15年ごろから組織運営や国への予算要求といった企画系の仕事を任される機会が増えてきました。自分がやりたい方向からずれてきている感覚はありました」と須佐社長。

そんなときに製薬会社から北大へ赴任してきた教員と出会う。その教員が創出する医薬品特許のレベルは民間企業出身とあって特許のための実施例(実験データ)に隙がなく、他の教員の特許レベルとは違っていたと振り返る。その案件の担当となり、仲間と共にこの案件をどうやって花開かせるかに取り組んだ。医薬品の場合、ライセンスまで到達するには安全性試験などを含めじっくり検証する必要があり時間と労力、そして最低でも数千万円規模の資金が必要だ。しかし、大学にその研究だけに充当できる余裕資金があるはずもなく、ならば起業して資金を集めてシーズを事業化しようと計画したのが2015年だ。

最初は資金調達の当てがなかったが、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の研究開発型ベンチャー支援事業 (スタートアップイノベーター)に応募し、3,500万円の資金を得ることができたことから起業が実現した。

起業には不安は付きものだ。しかし須佐社長は、「日本は起業家と呼ばれる人は少ないですよね。ならば自分でやるしかないと。成功するにせよ失敗するにせよ、まっとうにやっていれば次のステップがあるのではないでしょうか。失敗しても、借金は背負うかもしれませんが、大学発ベンチャーの立ち上げや経営の経験を得られます。その経験やスキルのニーズはどこかにあるでしょう。根拠のない自信です」と楽観的に笑った。


起業当初の事業で倒産しそうに

しかし、起業からしばらくは苦労の連続だった。

最初はパーキンソン病治療薬の研究シーズを基に起業したが、治療薬候補の非臨床試験の過程で全く予期していなかった安全性に関する懸念が出たことで、当時予定していた製薬会社とのアライアンス交渉も立ち消えとなった。

「当時は会社の運転資金が残り1,000万円ほどになり、何もしなければ会社は1年も持たない。残りの僅かな資金で治療薬開発を一からやり直すか、それとも会社をたたむかというところまで追い込まれました」と順調な船出ではなかったと明かす。結局、資金が残っているうちにその治療薬の開発は大幅縮小(のちに中止)を決め、治療薬のDDS(ドラッグデリバリーシステム)用ナノ粒子を自社製造する想定で技術導入を決めていたマイクロ流路を事業のメインにすることで収益化の道を探った。幸いにも治療薬開発で購入した設備や器具の多くは新事業に流用することができた。事業転換により失意の別れもあったが、その後優秀な技術スタッフを新たに招き入れることもできた。

研究者が起業する場合、自分の研究に対してこだわるあまり、立ち止まることができず方向転換がしにくい。ライラックファーマのケースでは、同じ北大の研究成果でも治療薬とマイクロ流路はそれぞれが異なる教員の研究成果だ。大学の各技術を第三者の立場で見ることができる産学連携職の目利きがあったからこそ、切り抜けられたのかもしれない。

また、須佐社長はシーズの事業化では「大学の研究成果の事業化を進めるにあたり、研究内容はもちろん大事ですが、教員との相性や人柄も重要な要素です。また最初は大学に多くを依存しなくてはなりませんが、少しずつ自社でできるようにしていかなくてはなりません。そのための優秀な人材の確保は優先して実施しています」と話す。新しい事業で再スタートできたのは、理解ある北大の教員や優秀な人材に恵まれたことも大きい。
自分の好奇心からくる研究は将来の趣味に
須佐社長に、研究者への未練はないのか尋ねると、「自分の好奇心からくる基礎的な研究をしたかったのですが、近年は興味、好奇心からやりたいと思う研究と、研究費が取れる研究は必ずしも一致しないと思うのです。日本では職業としてサイエンティストを選んだとき、自分の好きな研究はしにくくなっていました。がんばって好きな研究と、研究費を取るための研究の2本立ても選択肢にあると思いますが、自分にはその能力はありませんし、やろうとするとまた10年くらいはかかるでしょう」と語った。

今はビジネスの世界に生き、自分がやりたい研究は将来に趣味として実現する構想のようだ。「大学発科学技術の商業化」をライフワークと考え、産学連携の支援やコーディネーター人材の育成を手掛けつつ、自らはシリアルアントレプレナーとなることを夢見ている。そのためにまずは今の事業を安定させ、さらに次の事業を発掘し企業価値を高めることに集中しているようだ。そして将来は起業家として得られた利益を新たな大学発科学技術に投資し、人や事業を育てていくのが理想なのだ。もちろん、その利益の一部を自らの将来の趣味(研究)に回すことも、忘れてはいない。

(山口 泰博)