大戦末期、労働力不足を補うため、10代の学生も生産現場の第一線に立った。「学徒動員」だ。山口県山口市の中村高等女学校(現中村女子高)の女学生も軍需工場で働き、米軍の空襲で大勢の犠牲者を出した。あれから72年がたつ。「ここ数年、当時を知る同級生が次々に亡くなる。恋も知らずに死んだ女学生がいたことを、忘れてほしくない。だから、何度でも話します」。「元学徒」は同級生の生きた証を残そうと、思いを募らせる。(大森貴弘)

風船爆弾を作った

 山口市の杉村純子氏(88)は、昭和20(1945)年1〜2月、福岡県小倉市(現北九州市)の小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で、風船爆弾の製造に携わった。当時3年生だった。同級生25人や上級生と寮生活を送った。昼夜2交代でほぼ毎日、12時間作業した。

 テーブル大の鉄板に、和紙を3枚並べて、のり付けする。それを3枚分重ね合わせ、気球の一部になる。のり付けを終えると、蒸気で乾かす。最初は戸惑ったが、1日30枚以上を作れるようになった。

 全て手作業だった。のりをバケツからすくい、貼り付けた後は、紙をこすって空気を押し出す。不良品を作ってはいけないと力を込めるほど、皮膚が荒れた。傷口から指の骨が見えた同級生もいた。

 工場から寮まで、徒歩で1時間近くかかった。食事や洗濯を終えると、すぐに布団に入った。疲れ切っていた。2カ月間で、風呂に入ったのはわずか2回だ。体はのりで、べとべとだったが、少しでも寝ていたかった。

 「毎朝5時ごろだったかしら。『カッコウ、カッコウ』と、目覚ましで起こされた。そんな目覚ましの音を聞くのは、今も嫌なんです」

 2カ月の動員期間を終えると、頭にシラミがわいていた。

空襲で死んだ同級生

 昭和20年4月から、今の山口県光市にあった光海軍工廠での作業が始まった。杉村氏の配属先は弾丸工場だった。

 「弾が重くて重くて。抱きかかえるようにして、運びました」

 旋盤で中を削る作業を繰り返したが、誤って右手の薬指を切ったこともあった。傷跡は、今も残る。

 杉村氏の1学年下の山根君子氏(87)=山口市=は、鋳造工場に回された。ハンマーをふるい、丸い鉄板の縁を整えた。軍事機密だったのだろうか、何の部品かは教えてもらえなかった。

 終戦の前日の8月14日。海軍工廠に米軍機が襲いかかった。山根氏は慌てて防空壕(ごう)に逃げたが、爆風で壕が崩れた。どんな状態だったか思い出せない。男性工員に腕をつかまれ、砂から引きずり出された。

 工場だけでは飽きたらず、米軍は避難した工員らに機銃掃射を浴びせた。女学生でも関係なかった。

 熟練工を殺すことで敵戦力を削(そ)ごうと考えたのか、面白半分の「ハンティング」だったのか。米軍人の胸中は分からない。ただ、一方的な虐殺だった。

 「そこかしこから、絶叫が聞こえました。『お母さん助けて』って。この声は、今も頭にこびりついて離れません」

 山根氏は海岸に逃げた。頭だけは守ろうと、頭に板を乗せ、砂浜に顔を埋めるようにした。

 米軍が去ると、穴のあいた遺体があちこちに転がっていた。翌日から、同級生を捜し歩いた。夏の盛りだ。2日もすると、判別できない遺体も多くなった。服のネームプレートで名前を確認し、海岸に並べて焼いた。

 「仲が良かったのは武谷照子さんと高木道子さん。生き残った私たちは、お骨にするまで見送りました。みんなで演劇の練習を一生懸命していたのに、結局できなかった」

 この空襲で、動員された学徒133人が命を落とした。うち、33人が中村高等女学校の女学生だった。

 杉村氏は夜勤明けで難を逃れた。だが、同級生を亡くした悔しさは、今も時折こみ上げてくる。

 「15歳とか16歳の若さです。あの頃は、男性とどうにかこうにかって話もなかった。みんな、恋も知らずに死んでいったんです」

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【用語解説】学徒動員

 若い男性が徴兵され、労働力が不足したため、中等学校以上の生徒や学生が軍需工場や農作業などに動員された。戦況の悪化に伴い、昭和19(1944)年から学業は事実上停止された。機械を使った慣れない作業で、多くのけが人を出した。