築城の革命児・織田信長。先祖代々の居城を守ることが常識の戦国時代に、信長は居城移転を繰り返しました。信長は何で、このような常識外れなことを行ったのでしょうか?

居城移転を繰り返した織田信長
戦国時代の大名たちにとって領国経営の本拠地である居城は非常に重要な場所であり、領土を拡大しても居城を変えることはほとんどありませんでした。

例えば、軍神と呼ばれた上杉謙信は、関東や越中にたびたび出兵して領土を拡大していますが、生まれ育った春日山城(新潟県)から居城を変えることはありませんでした。

謙信のライバル・武田信玄も祖父が築いた躑躅ヶ崎館(山梨県)に生涯住み続けています。「一所懸命」という言葉通り、父祖伝来の土地を守ることに命をかけた大名やその家臣たちにとって、居城はある種の「聖域」だったのです。

しかし、そんな戦国時代の常識を覆し、たびたび居城の引っ越しを行った人物がいます。そう、織田信長です。城全体に石垣をめぐらせ、壮麗な高層建築である天主を持つ安土城(滋賀県)を創出するなど、城郭建築の革命児として知られる信長。

じつは彼は10代で那古野城主(愛知県)になると、清須城(愛知県)→小牧山城(愛知県)→岐阜城(岐阜県)→安土城と4回も居城を変えているのです。

なぜ、信長はこれほど引っ越しを繰り返したのでしょうか?

引っ越しが信長を天下人にした!?
信長がはじめて城主となった那古野城は、父・信秀が今川氏から奪った城。信秀死後もしばらく信長はこの城を居城としていましたが、天文23年(1554)に家臣の謀反にあった尾張守護・斯波義銀(しばよしかね)が助けを求めてきたことをきっかけに尾張国内を統一。

守護の居館だった清須城を自分の居城にしてしまいます。清須は尾張の中央に位置していて、東海道や伊勢湾に近い交通の要衝でした。一国の領主となった信長は、ここで尾張進出を狙う今川義元と対峙します。

永禄3年(1560)、今川義元を桶狭間で破り尾張を完全に掌握した信長は、斎藤氏を攻略するために美濃に近い小牧山ではじめての築城を開始します。従来は美濃攻略のための急造の砦と思われていた小牧山城ですが、近年の発掘調査で信長時代の石垣が発見され、本格的な石垣を備えた近世城郭の嚆矢(こうし)ともいえる城だったことが判明しました。

城下町も本格的な町割が行われていたといいます。信長は旧権力のしがらみが強い清須城ではできなかった、新しい城と城下町の創出にチャレンジしたのでしょう。