武田信玄が築城名人だったのをご存知ですか? でも、織田信長が安土城を築き近世城郭を世に広めたのに対し、信玄の城はパッとイメージできない方も多いのではないでしょうか。 信玄はどんな城を築き、城をどう活用したのかを解説します。

河岸段丘や丸馬出しが信玄の城の特徴
「人は城、人は石垣、人は堀/情けは味方、仇は敵なり」。これは武田信玄の逸話や武田家に伝わる軍学を記した『甲陽軍鑑』の一節。「人は城…」というフレーズから、信玄は城を築かなかった戦国大名という印象を持つ読者も多いのではないでしょうか。

信玄の居城であった躑躅ヶ崎館跡(山梨県)が現在は武田神社になっており、城らしさが乏しいのも、信玄と城の結びつきを弱めているように思います。

しかし、信玄は当時としては最も発達した城郭を築いていました。ではなんで城のイメージが薄いかというと、信玄が築いた城は山城や土の城(中世城郭)だからでしょう。

織田信長は天下統一を目指す過程で、天守がそびえる石垣の城、いわゆる近世城郭を創出しますが、信玄の時代はまだ石垣をもたない中世城郭が主流でした(信長が最初の近世城郭とされる安土城(滋賀県)を築いた頃には、信玄はすでに他界していました)。

先ほど「最も発達した城郭を築いた」と書いたのは、「“中世城郭として”最も発達した」ということです。

信玄の城は居城の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(現武田神社)ではなく、国境の最前線や侵攻先に築いた城でこそその真価が発揮されました。特徴としてはまず、地形を巧みに利用している点が挙げられます。山城が地形を利用するのは当たり前のことですが、信玄が多用したのは「河岸段丘(かがんだんきゅう)」。

何百・何千年という時間を経て河川が削り取った階段状の地形のことで、崖に接して城を築けばそちらから攻めることはほぼ不可能であり、高い防御力を発揮します。また、河川の水運と河川沿いの交通網を管理・警備しやすいというメリットもあります。

信玄の城の特徴として、もうひとつよく挙げられるのが「丸馬出し」です。城の攻防では敵が押し寄せることになる「虎口」。この虎口の前面に設けられた小さな曲輪のことを馬出しといいますが、信玄は「三日月堀」と呼ばれる半円の堀をともなった丸馬出しを多用しました。

さらに方形の空間を持つ「枡形虎口」も採用しており、枡形と丸馬出しを連続させることで鉄壁の虎口としていたのです。丸馬出しと枡形虎口の組み合わせは、信玄の息子・勝頼が築いた新府城(山梨県)などで見ることができます。