将軍家の威光を諸大名に示すため
さて、前述で取り上げた江戸城の面積は、皇居がある城の主要部分になりますが、実はその外側にも江戸城は広がっていました。「外側に広がっていた」と言われても、意味不明で不親切ですよね。このことを理解するためには、江戸城が「内郭」と「外郭」の2段構造だったことを理解しなければなりません。

江戸城の「内郭」は内濠の内側であり、本丸・二の丸・西の丸・吹上・北の丸などがあった城の中心部を指します。一般的に、皇居およびその周辺の公園とイメージしている範囲ですね。一方で、「外郭」は外濠の内側を指しますが、この外濠がとんでもなく長い。外濠を現在の駅で追っていくと、神田駅周辺を始点として新橋駅まで南下し、虎ノ門駅を経由して赤坂見附駅、そして四ツ谷駅へと延び、四ツ谷駅からは東へと向きを変えて市ヶ谷駅、飯田橋駅、御茶ノ水駅とJR総武線と平行して走り、そのまま隅田川へと達します。この渦巻き状にのびる外濠の内側も江戸城だったわけです。

内濠と外濠の間には、大名屋敷や町人街など、いわゆる城下町が広がっていました。「それじゃ城ではないじゃないか!?」という反論があるかもしれませんが、城下町全体を内包する城の構造を「総構(そうがまえ/惣構とも)」といって、江戸城に限らず、多くの城で採用されていたのです。例えば、北条時代の小田原城(神奈川県)や、豊臣秀吉が築いた大阪城(大阪府)にも総構がありましたが、この総構の長さ(規模)も江戸城は圧倒的に日本一だったのです。ここで、総構の長さを比較してみましょう。

 姫路城:約5200m
 萩城:約5500m
 大阪城:約8100m(豊臣時代)
 小田原城:約9000m(北条時代)
 江戸城:約1万5700m!

家康が築いた江戸城は、総構の長さでもライバル秀吉の大阪城にダブルゲームの差をつけて、圧倒的に日本一! 総構を含めた江戸城の規模は、中央区と千代田区がすっぽり入るほどの広さで、この範囲を中心に大江戸八百八町は発展していったわけです。