13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に命じられて田中城に派遣されたのではないかと指摘されているものの、詳しい状況は判明していない。ちなみにこの田中城は、信長、秀吉、家康に仕え、大名となった田中吉政(たなかよしまさ)の先祖が築いたとされる城である。

岐阜県には「明智(明知)」という名を冠した城が可児市と恵那市に残る。このうち恵那市にある明知城は遠山氏が勢力を張った城のため、美濃(岐阜県)の守護を務めた土岐氏の流れを汲む明智氏の出身とされる光秀は、長山城とも呼ばれる可児市の明智城で誕生したのではないかといわれている。

しかし、若い頃の光秀は、召使いを1人連れているだけの貧しい武士だったとする史料もあり、本当に明智城で生まれたのかどうかは、はっきりしていない。

光秀が築いた坂本城には安土城より先に天守があった
信長に仕える前は、京都や越前朝倉氏のもとにいたとされる光秀は、信長へ仕えはじめてからメキメキと頭角をあらわしていく。信長の悪行のひとつとして名高い比叡山焼き討ちで戦功があった光秀は、近江志賀郡5万石が与えられ、居城として琵琶湖に面した地に城を築いた。坂本城(滋賀県大津市)である。

光秀には比叡山焼き討ちに反対したイメージが強いかもしれないが、実際は光秀が積極的に関与していたのではないかとの可能性が指摘されている。

焼き討ち前年に比叡山に近い宇佐山城(滋賀県大津市)に入った光秀は、周辺勢力の懐柔を行っており、焼き討ち10日前の書状の中で、比叡山に与する仰木の地を攻め「撫で切り(皆殺し)」にしなければならないと述べているからだ。むしろ信長の方が消極的だったとする説もある。