黒い天守=豊臣、白い天守=徳川という図式は正しいのか?
一昔前の城の解説本などでは、築城年代が古い天守はすべて「黒い天守」(下見板張)で、「白い天守」(白漆喰総塗籠)が登場したのは、現在の姫路城天守が造られた天下普請の頃からといわれていました。

しかし、豊臣秀吉が京都での居所とした聚楽第(じゅらくだい/京都府)を描いた『聚楽第図屏風』から、豊臣政権下で造られた聚楽第の天守が白漆喰総塗籠であることが判明。

同じく秀吉が築いた肥前名護屋城(佐賀県)も屏風絵では白い天守として描かれていることから、現在では黒い天守と白い天守の登場時期にほとんど差はないと考えられています。

また、かつては「天守の外壁の色は大名の派閥を表している。豊臣系大名の黒い天守に対抗して、徳川系の大名は白い天守を築くようになった」という説もよく目にしました。

確かに、豊臣秀吉の子飼いである加藤清正の熊本城(熊本県)や、秀吉に長年仕えた堀尾吉晴(ほりおよしはる)が築いた松江城(島根県)は下見板張の城です。一方、徳川家康の天下普請で造られた名古屋城や姫路城の天守は漆喰総塗籠なので、この説は正しいように思われます。

しかし、熊本城の天守が完成した慶長5年(1600)、清正は徳川家康と親しくしており、直後に起きた関ヶ原の戦いでも東軍として動いていました。天守の色で派閥が決まるなら、家康派の清正は完成を遅らせてでも天守の外観を変更しているはずですよね。