九州北西岸に広がり、古来より日本と海外を結ぶ重要な航路にあった平戸瀬戸。見守るように立つ平戸城天守には、城主自ら壊すことになった苦境から、再築を許されるまでのドラマがありました。寺院と教会が一緒に見える景色や、ヨーロッパの影響が残る食文化など、国際色豊かな城下町平戸の過ごし方とともにご紹介します。(※2019年5月28日初回公開)

徳川家への忠誠心を示すために城主自ら城を壊す
平戸(長崎県平戸市)は、遣隋使や遣唐使の寄港地として、戦国時代には宣教師フランシスコ・ザビエルが訪れ、江戸時代には日本最初の西洋貿易港としてオランダ船やイギリス船が行き交いました。そんな国際色豊かな、平戸瀬戸を見守るように立つのが平戸城。平戸の町のシンボルでもある三重五階の平戸城天守は、昭和37年(1962)に建造された模擬天守(史実とは異なる天守)です。

実は、天守にまつわる平戸城ならではのエピソードが残っています。慶長4年(1599)、平戸を治めていた松浦鎮信(まつらしげのぶ)は、三方を海に囲まれた亀岡(かめおか)山に、日之嶽(ひのたけ)城を築きました。その後、政権を握った徳川家に、忠誠心を疑われてしまうことになり、松浦鎮信は自ら日之嶽城を焼き、徳川家に抵抗する気がないことを示しました。

また、築城術のひとつである山鹿流軍学の影響と考えられる遺構も見逃せません。石垣に空けられた狭間(弓や鉄砲を撃つための穴)や、折れや屈曲を用いたデザインなどが見られます。