[最初の二条城]信長が義昭のために築いた将軍御所(旧二条城)
最初の二条城は、織田信長が室町15代将軍となった足利義昭のために築きました。今に残る二条城と区別するため、「旧二条城」と呼ばれています。旧二条城が建てられた場所は、現在の平安女学院中・高校の位置を中心に、東側は現在の京都御苑の一部に重なる位置だったようです。

もともとこの土地は室町幕府の有力大名であった斯波氏(しばし)の館跡で、館は13代将軍・義輝に譲られていました。二条大路(現在の二条通り)よりだいぶ北側に位置しているのですが、当時の史料には「二条武衛陣の御構(武衛とは斯波家のこと)」という記述がのこされています。“剣豪将軍”義輝は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らに襲われ、抵抗及ばず戦死しますが、その舞台がこの屋敷でした。

義昭は義輝の実弟であり、信長は親族ゆかりの地に、義昭の新たな御所をつくったのです。旧二条城には当時まだ珍しかった石垣が用いられており、発掘された石垣の一部は、場所をかえて京都御所内や現在の二条城内に復元されています。

調査からは、2重(3重とも)の石垣と横堀がめぐっており、さらに天守らしい高層建造物が建っていたことも判明しました。信長は貧乏将軍だった義昭のために、防御もしっかりした立派な城を贈呈したわけです。ところが義昭はこのときの感謝を忘れてしまったのか、信長に対して反抗的な態度をとったあげく、合戦にまで発展し、結局は京から追放されてしまいました。怒り心頭の信長により、旧二条城は徹底的に破却され、建物の一部は安土城に転用されたと伝えられます。