岸和田城は水堀を挟んで本丸と二の丸に分かれています。本丸を囲む水堀を歩いていると、見る角度によって石垣や天守の見え方が異なり、不規則な形をしていることに気付きます。存在感のある水堀のなかでも、百間堀は城内最大級の幅があり、城下町と岸和田城を隔てていました。現在は一部埋め立てられたものの160mほどが残っています。
往時をしのばせる石垣は、打ち込みハギを中心として、一部に切り込みハギが見られます。石材も複数用いられており、本丸石垣には和泉砂岩と花崗岩、さらに花崗岩も地元の神於山周辺の花崗岩系の石材と、瀬戸内海系の花崗岩に分かれます。
天守から望む大阪湾と八陣の庭
天守に登ると、大阪湾を望む気持ちの良い景色が広がっています。大阪湾に近いこの場所が城地として選ばれ、羽柴秀吉の家臣・中村一氏や、秀吉の叔父・小出秀政らが改修。寛永17年(1640)に入封した譜代大名・岡部宣勝が完成させました。以後、明治維新まで岡部氏13代が治めましたが、文政10年(1827)の落雷により五重の天守は焼失。明治時代には櫓・門などの城郭施設を壊しため、近世以前の構造物は堀と石垣のみ残っています。
天守前には国指定名勝の岸和田城庭園(八陣の庭)が広がります。昭和28年(1953)、作庭家・重森三玲(しげもりみれい)氏が手がけました。室町時代以前の城郭平面図をもとに地取りし、「三国志」の軍師・諸葛孔明が用いた八陣法をテーマに、大将を中心として天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配したものです。