太陽が昇るように輝いていたことから、別名「高陽(こうよう)城」とも呼ばれた華やかな城! 高田城(新潟県)は、平城の近世城郭としては珍しい土造りである点が特徴です。平成5年(1993)に復元された三重櫓がシンボル。春には、満開の桜と城のコラボレーションが堪能できる“映える”人気スポットになります。幕府に重要視されていた越後の拠点とは、一体どのような城だったのでしょうか?(※2020年6月25日初回公開)

60万石の拠点「高田城」の誕生
戦国時代の越後の覇者・上杉氏に代わって、この地を治めたのは堀秀治です。春日山城(新潟県)を廃し北東7kmの位置に新たな拠点となる「福島城」を築きますが、内紛がおきすぐに領地を没収されました。慶長15年(1610)、替わって入封したのが徳川家康の6男・松平忠輝。19歳の若さで、村上・新発田を除く上越と信濃の川中島を治める、あわせて60万石(45万石、75万石と説あり)の大大名が誕生したのです!

忠輝は、堀氏が築いたばかりの福島城を廃して、高田城の築城を開始。世の中は豊臣政権から徳川政権へと移り行く転換期にあたり、高田城は、反徳川勢力となる加賀・前田家や出羽・上杉家の抑えとなる役を担いました。

築城期間わずか4カ月の巨大城郭
慶長19年(1514)3月15日に築城を開始した高田城は、4カ月という短い期間でおおむね完成しました(※)。幕府が諸大名に築城を命じた「天下普請」によって工事が行われ、担当したのは、伊達家の仙台藩、南部家の盛岡藩、蒲生家の会津藩など東北の外様大名を中心とした13家です。

※忠輝が入城した後も外郭の工事は行われていたようです。築城開始から50年ほど経った松平光長の代にも城と城下町の整備が実施されています。

忠輝が改易させられた後は、徳川四天王の一家・酒井家次や、松平忠昌、松平光長といった徳川一門の家柄が続き、光長の後は稲葉家、戸田家、久松松平家などの幕府の老中職クラスの大名が入封。そして、江戸時代後半には徳川四天王の一家・榊原家が約130年にわたり高田を治め、明治を迎えました。

藩主には親藩・譜代の信頼できる大名を置いていることから、幕府にとって重要な拠点であったことがわかります!