
慶長の役で築かれた泗川城(しせんじょう・サチョンウェソン/慶尚南道泗川市)。島津軍が明・朝鮮連合軍と戦った泗川の戦いの舞台で、城門が復元されている
(城びと)
[釜山広域市]釜山浦城(ふさんかいじょう・プサンポウェソン)
対馬海峡に面する釜山は、古くから朝鮮半島と日本を結ぶ交通の要衝でした。開戦当初の文禄元年(1592)、宗義智(そうよしとも)・小西行長両軍によって襲撃・占領の後、毛利輝元(てるもと)・毛利秀元によって築かれました。山頂部の母城と港湾に面した子城からなり、戦いが終結するまでずっと物資の集散基地でした。
壮大な規模だったと伝わる釜山浦城ですが、現在母城は公園化されています。宅地も多く、山頂部の天守台以外は、ところどころに石垣や虎口の遺構が確認できる程度。この城には唯一4本の登り石垣が設けられていたそうですが、残念ながら今のところはほとんど確認できないようです。往時は湾に接していた子城の丘には、一部登り石垣も残っています。母城と子城の登り石垣が接続していた可能性もあり、今後の調査に期待したいですね。
この他にも見学できる倭城はたくさんあり、中には城門を復元しているところもあります。敵地での不自由さと心細さに耐え忍びながらも、そうそうたる武将たちが秀吉の夢を背負って懸命に築いたガチガチの倭城たち。コロナ禍が明けたら、ぜひぜひ見学に訪れてみてくださいね!
お城情報WEBメディア「城びと」
2020年11月初出の記事を再編・再掲載