
旧国宝だった広島城は昭和20年(1945)8月6日の原爆投下で被爆した。天守は爆風に耐えたものの、下層が衝撃でもろくなったために自重に耐えきれず倒壊してしまった
(城びと)
まだ廃城令が出される前、明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事。城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様。また、新政府への反抗運動の拠り所となるのを防ぐために取り壊された城もありました。そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。
そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。存城処分となったのは、東京城(江戸城/東京都)、仙台城(宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城(大阪府)、広島城(広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみ(諸説あり)。残りはほとんどが廃城処分となりました。
存城=保存ではない! 城郭保存へいたる長い道のり
存城・廃城と運命が分かれた城たちですが、ここで大切なのは、存城=保存ではないということです。あくまでも軍用地としての存続なので、存城となっても、広い場所を確保するために堀を埋めたり、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりという例が少なくありませんでした。逆に、本丸や二の丸など主要部以外の広い曲輪を軍用地としたため、天守などの建造物は残されたという例も。会津若松城(福島県)は前者の例で、存城となったものの、すべての城郭建造物が取り壊されました。姫路城(兵庫県)は、典型的な後者の例です。現在三の丸を囲む堀の外側に建つ市立美術館は、元は明治時代に建てられた軍の倉庫でした。存城となっても、遺構の残り方は一様ではなかったということですね。