さて、先ほど西の丸御殿に入ったと書きましたが、なぜ西の丸御殿だったかというと、将軍の本邸といえる本丸御殿は失われていたから。黒船来航以降の動乱は江戸幕府にとって試練続きでしたが、江戸城にとっても幕末は災難の連続で、何度も大火事に苛まれました。御殿だけをピックアップしてみても、本丸御殿が1844年と1863年、二の丸御殿が1863年と1867年、西の丸御殿が1852年と1863年に全焼の憂き目にあっています。いくら「火事と喧嘩は江戸の華」だからと言っても、江戸城の長い歴史の中で、これほど集中して火難が集中した時期はありません。何かに呪われているのかと疑った人も多かったでしょう。

一応その都度再建していたのですが、幕末も押し迫ると幕府は財政不足に見舞われ、政治的にも城のことなどかまっていられなくなり、本丸御殿は1863年、二の丸御殿は1867年の焼失後は2度と再建されませんでした。将軍は京都に行ったまま戻ってこないし、参勤交代もなあなあになっているしで、御殿は唯一残っている西の丸御殿で代用が効いたのです。その西の丸御殿に大坂城から遁走してきた慶喜が入るのですが、結局1カ月あまりの滞在で出ていくことになります。

それから約半年後、明治天皇が江戸城に入り、主人のいなくなった西の丸御殿を仮の宮殿としました。江戸城は「東京城」へと改称されて天皇が住まう宮城(皇居)となり、やがて西の丸御殿の場所に「明治宮殿」が新たに建設されました。現在も皇居が西の丸に置かれているのは、このような経緯があったためです。