流転する慶喜〜江戸から水戸、そして静岡へ
時代の針を慶喜の江戸入城まで戻します。江戸に帰ってきた慶喜は、その段階で新政府への恭順を決意していました。大坂撤退に及んで、薩摩藩に対してもはや主導権争いはしない、自らは政治の一線から退くということを決めていたようです。

ただし、慶喜が降りるからといって、江戸城内の幕臣や佐幕派の藩が黙ってそれに従うわけがありません。江戸にはまだ一戦も交えていない兵力もあれば艦隊もあります。幕府が立ち上がるとなれば、それに従う藩もあるでしょう。何より、幕臣にはこれまで日本を統治してきたという矜恃があります。数日間にわたって開かれた会議では、終始、主戦派がリードしました。その中でも徹底抗戦を主張したのが元勘定奉行の小栗忠順。彼は煮えきらない慶喜の袖をつかんで、「なぜ、すみやかに正義の一戦を決しないのか」と迫ったと伝えられます。

しかし、幕臣らがどれだけ主張したところで、慶喜が抗戦に同意することはありませんでした。主戦派が抗議のために江戸城内で自刃するという悲劇も起こりましたが、それでも恭順の気持ちは変わらなかったのです。小栗ら主戦派を罷免し、続いて老中職を廃止。新たに勝海舟を陸軍総裁に就任させるなど、幕府解体と最低限の組織再編に手をつけたところで、2月12日に江戸城を出て、上野・寛永寺で謹慎生活を始めてしまったのです。新政府に対して恭順の姿勢を表明するためでしたが、主戦派の幕臣らには、トップとしての役割を放棄してまた逃げ出したと映ったことでしょう。