一方、新政府は武力による幕府討伐と慶喜の処罰を掲げ、東征軍が京都を進発しました。そして江戸城総攻撃が3月15日に決定するのですが、その直前に旧幕府代表の勝海舟と新政府代表の西郷隆盛が2日間にわたって会談し、総攻撃が回避されたのはよく知られているとおりです。最近では、回避劇の舞台裏で、イギリス公使パークスの働きかけがあったことが分かっています。慶喜の人柄や政権構想をよく知るパークスは、戦争に負けて捕らわれたナポレオンが処刑されずに島流しにとどまった例を持ち出し、恭順を示している慶喜が処罰を受けることは万国公法に反すると西郷らに圧力をかけました。それが慶喜の命と江戸の街を救うきっかけのひとつになったのです。

4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されたその日に、慶喜は上野・寛永寺から生まれ故郷である水戸へと退去し、弘道館で謹慎生活を始めます。ただし、ここも安住の地とはなりませんでした。新政府は徳川家の領地を70万石に減らして静岡に持たせることを決定し、それにともない慶喜には静岡転居を命じます。わずか3カ月あまりの水戸生活に終止符をうち、7月に静岡に移住しました。

水戸へと退去したのち、上野では彰義隊の敗戦があり、東北の地ではかつて慶喜を支えた会津藩ら東北諸藩が新政府軍を相手に激戦を繰り広げ、劣勢を強いられていました。そうした情報を、蟄居先の慶喜はどのような面持ちで聞いていたのでしょうか。