私人に徹した後半生と渋沢栄一との交流
大坂から江戸へ、そして水戸から静岡へと流転した慶応4年(1868)、慶喜はまだ数え32歳でした。権力の座から転げ落ちた人間は、そこで張り詰めた糸がプツンと切れてしまったかのごとく、間を置かずに死没してしまうことが少なくありません。しかし、慶喜の場合はここから40年以上の長い長い後半生が始まるのです。その余生はじつに充実した、現代人から見てもうらやましい限りのセミリタイア(最近の言葉だとFIRE)でした。

その余生を一言で表現すれば“趣味三昧”。慶喜の興味関心は多岐にわたり、主だったものだけでも写真、油絵、狩猟、乗馬、弓道、囲碁、自転車や自動車などが挙げられます。変わったところでは、刺繍や手芸にも熱心でした。これらの趣味に共通する点は、一人でも打ち込めるということ。もちろん、先生や対戦相手が必要な場合もありますが、ある程度のスキルを身につければ、あとはとことん一人の世界に没頭できるものばかり。なるべく他人との関わりを持たずにひとつの趣味の世界に浸りこみ、その趣味をある程度極めるとまた次の趣味へ、という生活を繰り返したようです。

他人と関わる趣味をなるべく敬遠したのは、彼が時の政治情勢にいっさい関わらず、私人として生きることを世間や新政府から強いられたことと無関係ではないでしょう。静岡に移住したその年の暮れ、フランスから帰国した渋沢栄一が慶喜に謁見しましたが、慶喜は欧州巡回の様子を聞いてくるばかりで、新政府への批判や境遇への愚痴めいたことは何ひとつ話さなかったそうです。その後も長い余生の中で、政治に関わろうとしたり言及したりすることはほとんどなく、最後の将軍としては沈黙を守り通しました。「君子危うきに近寄らず」——享年77という長寿をまっとうできたのは、後半生の徹底した処世術にあったのでしょう。