第1次合戦の際は村上氏与党として、栗田永寿も落合治吉も上杉方として戦ったが、第2次合戦では栗田永寿は調略により武田方に寝返り、善光寺平を見下ろす落合治吉の居城葛山城の抑えとして、旭山の古城に援兵3000人、弓800張、鉄砲300挺を武田方から受けて入城する。旭山城はこの時武田方の改修があって、石垣などにより要害として補強された。対して、葛山城にも長尾方から村上氏の一族小田切幸長が援軍として派遣され、もともと急峻な山頂を有し要害であったが、さらに大規模な改修により難攻不落な城になったと考えられている。かくして、この2城が第2次川中島の戦いの最前線となってしまうのであった。

戦いは、攻める武田方に守る葛山城で展開したようだ。武田氏得意の調略も含めて、あの手この手を繰り出すが、城方も要害を頼りに武田勢を寄せ付けない。飯縄の妖術・忍術も駆使したのだろう。山岳戦になれば天狗=山法師の独壇場であったろうし、管狐(くだぎつね)が敵方の動きを察知し混乱を巻き起こしたろう。葛山城の水の手が弱点であることを隠すために、旭山城から良く見える崖に米を滝のように落として水が豊富であると見せかけたという伝承が残るが、これは飯縄の妖術の類だったのかもしれない。

ついに葛山城を落とせないまま対陣200日に及び、両軍とも兵の士気が衰えた頃合いに今川義元が仲介に乗り出し、両者対陣前の状態に戻す約束で陣を引き払うこととなった。旭山城はかくして上杉方によって破却され、北信濃衆は武田方から本領を返還されたのである。この条件は長尾方の勝利とも見えるが、ここからが武田信玄の面目躍如。停戦後真田幸隆により葛山衆の内部に調略の手を進め、落合一門の重臣の調略に成功。また、葛山山麓にある静松寺の僧から葛山城の水の手が実は脆弱であることを知った上で、停戦から2年後の弘治3年(1557)2月、信越国境の雪が解ける前に馬場信房を大将に1万7000余人の大軍で葛山城を急襲。水利の不便を突いた火攻めにより全山防塁も含めて炎上。城兵必死の防戦も城内から身内の寝返りが起こり、ついに落合治吉は援将小田切幸長ともども奮戦の上討死。城兵も多数討ち取られ、逃げ場を失った女房衆は、崖の上から身を投げて死んだと伝える。

同年4月雪解けを待って攻め寄せる上杉謙信は、北信濃の武田方諸城を攻撃し、善光寺平を奪還。旭山城を修復して善光寺脇にある横山城に着陣した。ここに第3次川中島の戦いが始まり、戦いの舞台はいよいよ川中島へと移って行くのである。