主郭は30m×30m程の方形をしており、周囲に土塁が残る。虎口が東西にあり、どちらから出ても堀切で分断されている。

西側は倉屋敷と呼ばれる郭があり、尾根沿いに腰曲輪が連なる。東は木曽義仲の霊碑(なぜここにあるのか良く分からないのだが)が堀底にある大堀切を挟んで主郭と同規模の二郭があり、さらに竪堀に連なる二本の堀切と物見岩と呼ばれる大石でできた虎口を経て善光寺平を見渡せる郭に至る。この郭の中央には雨水を貯めておいたと伝わる窪地がある。ということは葛山城に負けず劣らずこちらも水利は厳しい状態だったということか。

この城は上杉謙信によって破城された城で、確かに城内至る所に石垣を崩したとおぼしき石が転がっている。ただ、一旦破城した後、再度上杉謙信によって再興されたというが、この状態はどう理解すれば良いのだろうか。

その後
落合氏は滅亡したが、葛山衆の生き残りたちは上杉家に仕え、上杉景勝の転封に伴い米沢に移ったという。これもこの一族が忍者衆だったからではないかと思えてしまう。飯縄権現はその後戦勝の神として上杉・武田両家から神領が寄進され、さらには徳川家光も朱印地を寄進するなど崇められた。現在も尊崇の対象として飯縄山の中腹にある集落の中央に社殿を構える。

栗田永寿は、長尾景虎の再攻に遭って善光寺の秘仏である本尊を抱えて甲斐国に逃走し、甲斐善光寺を創建することとなる。さらに永寿の孫は高天神城(静岡県)で武田方の侍大将として討死し、一族は滅ぶこととなった。なお、善光寺の秘仏は武田家滅亡後、織田信忠〜織田信雄〜徳川家康〜豊臣秀吉へと渡ったが、秀吉の病はこの秘仏の祟りであるとして秀吉の死の前日に善光寺平に戻された。善光寺サイドにも凄い霊力があったという証左か。江戸時代にこの秘仏を本尊として善光寺が再建され現在に至っている。

なお、本稿はあくまでも史実と史実の隙間を、私の妄想によってつなぎ合わせた仮説ですので悪しからず。