龍岡五稜郭は未完成だった!?
日本にある星形の城といえば、北海道の函館五稜郭が有名ですね。幕末に西洋式の築城技術を取り入れ築かれた城で、この頃には四稜郭(函館市)や戸切地陣屋(へきりちじんや・北斗市)など「稜堡式」の城が誕生しました。そんな西洋式の城に刺激を受けた人物が、松平乗謨です。

大給松平家は徳川家康の5代前に分家した家系にあたり、乗謨は三河と佐久を領した奥殿藩の11代目藩主。わずか14歳で藩のトップとなり、幼い頃から蘭学やフランス語を学んで、火砲や築城術を心得ました。その才能を見出され、幕府の要職を任された乗謨。28歳の時には老中格も経験しています。老中はだいたい5万石以上の譜代大名の中から選ばれるのが通常で、1万6000石の小藩から抜擢されるのはまさに異例の登用だったのです。

話は戻り文久2年(1862)、参勤交代制度が緩和され、家臣たちが国に滞在する期間が長くなりました。このタイミングで三河から佐久へ本拠地の移転を申し出て、「田野口藩(のちに龍岡藩に改める)」を立藩。無城大名だった大給松平家は城を持つことができなかったため、新しい「陣屋」の建設を幕府に願い出たのです。

乗謨自ら設計を行い、元治元年(1864)3月に着工した龍岡城は、慶応3年(1867)4月に完成しました。しかし、西面・南西面の堀は未完成のままで、さらには準備されていた瓦も使用せず建物は板葺きのままだったとか。これらのことから、龍岡城は実質未完成だったと考える説もあります。

ちなみに龍岡城は星形の内側の「内城」と外側の「外城」に分かれており、内城には御殿建物や火薬庫が、外城には藩士の屋敷などが建てられていました。