城がもっぱら軍事的な防御施設で、使い捨ても当たり前だった中世までは、「城主」とは、詰めている兵を指揮してその城を守るリーダーのことを指したようです。そして、城が巨大化してその役割も増えていった近世以降は、その土地の領主である大名、つまり藩主が「城主」となり、住居・防御施設・政庁として城を日常的に使用・管理していました。

ところが、幕府の国替やら改易やらのお達し一つで、領地替えはけっこう頻繁に行われていました。現代のように法で定められた土地の所有権がなかったため、一国一城の主といえど、「いやいや、この国はそれがしのものでござる!」と幕府に楯つくことなどできず、心血を注いだ城普請の途中でも、渾身の政策で領地を豊かにしようとがんばっている最中でも、黙って引っ越さなければなりませんでした。ということは城の所有者は、城主のようでじつはそうではなく、幕府だったことになります。

近代以降の持ち主は城によって様々

ところが明治時代になって城が役目を終えてしまうと、全国の城は明治政府陸軍省の所有となります。そして「廃城令」によって、陸軍省所管の「存城」と大蔵省所管の「廃城」に仕分けされます。存城処分の城は改変されながらも軍用地として残り、廃城処分の城は普通財産となって、払い下げの後に取り壊されたり、学校用地になったり。あの姫路城天守が、な・な・なんと現在の価値で50万円足らずで売られていたほどなので、このころならば個人で城を買い取って「われは城主なり!」とふんぞりかえることは可能でした。とはいえ当時、使い道がない上に巨大すぎて管理も取り壊しも莫大な費用がかかる天守を、欲しがる人はほとんどいなかったのです。