漁港には賑やかさが戻るも夜は一変
気仙沼の漁港から3分ほど内陸に向かって歩くと、薄暗い通りに3、4軒の「スナック」を見つけた。20時を回った頃、店の看板に明かりが灯りはじめたが、通りを歩く人影はない。

今年で東日本大震災から12年。筆者が宮城県気仙沼市を訪れたのは“3.11”から少し前の2月25日のこと。漁師の街ということもあり、かつてこの一帯には多くの飲食店やスナックが軒を連ねていた。
震災前、筆者もある事件の取材で、この街のフィリピンパブで聞き込みをしたことがある。当時は、ずいぶんとたくさんのフィリピン人がこの街で働き、生活をしている印象を受けた。
県や市の発表(2022年3月31日時点)によれば、震災により気仙沼市で発見された死者と行方不明者は1433人。被災した住宅は、2014年3月末時点で、1万5815棟。被災した世帯数は推計で9500世帯(2011年4月27日時点)に上った。
津波と火災で街の景観は大きく変わり、気仙沼漁港の周囲には、ライトアップされた真新しい建物が多く建つ。俳優・渡辺謙が立ち上げた洒落た外観のカフェも港の目の前にある。
埠頭には遊覧船が停泊し、魚市場にある鮮魚店ではメカジキやサメが売られ、決して多いとは言えないが、観光客の姿もあった。

ところが夜になると街の姿は一変する。路地を入ると、小さなスナックや居酒屋が数件営業しているだけで、街はひっそりと静まり返った。
「いらっしゃいませ〜」
新しそうなビルの1階にあるスナックのドアを開けると、ドレスで着飾った6、7人のフィリピン人女性たちが一斉にこちらを見た。店内には他の客の姿はない。
「震災の前までは、この辺りのお店にフィリピン人が80人くらいいました。でも今は50人。最近は中国人の方が、フィリピン人よりたくさんいます」
そう話すのはフィリピン人のモニカ(38)だ。彼女は昼間、海産物を扱う会社で、めかぶの加工をしているという。夜は漁港近くにある、このスナックで働いている。

「中国人の方が、フィリピン人よりお金があるからね。震災の後、中国人の女の子がいる飲み屋さんが急に増えた。日本人の子の店は、もう数えるほどしかないですよ」
お父さんと慕う社長夫妻も津波に流されて
モニカは、震災当時から気仙沼市に住んでいたという。その彼女に震災時の様子を聞いてみると、「本当に大変だった」と明るく言いながら、当時を振り返った。
地震が発生した3月11日、モニカはその当時、夫と一緒に魚の卸問屋で働いていた。
「津波がきたときは、旦那さんと一緒に、とにかく必死で近くの避難場所に逃げました。ビルの上に登ると、気仙沼の街が流されていくのが見えました。怖くて怖くて、もう涙が止まらなかった」

この津波で、モニカがお父さんと呼んで慕う卸問屋の社長と、その妻も命を奪われた。高台にあるホテルの屋上には多くの人が集まり、救助にあたるヘリコプターに向かって人々が手を振って必死に助けを求めていたそうだ。
モニカと同じ店で働くミヤビ(43)は、震災の2か月前に、気仙沼で女児を出産したばかりだった。
「私はお見合い結婚をして、フィリピンから気仙沼にきました。旦那さんは24歳上で、もう仕事は引退しています。彼はフィリピン人とお見合いするためにエージェントに300万円払ったんですって。今の相場は400万円くらいに上がっているそうです。
その旦那さんと結婚して、女の子が生まれた2か月後、震災が起きました。うちは、海から少し離れた場所に住んでいたので、津波や火事の影響はありませんでした。だけど電気が停まってしまい、すごく怖かった」(ミヤビ)
彼女の住む集落は、水道の代わりに、生活用水として山から水を引いて暮らしていたといい、断水に悩まされることはなかった。ただ、生まれたての赤ん坊に加え、3歳になる幼い子供を抱えながら、灯りが消えた部屋の中で不安な日々を過ごした。

「自分のことより、子どもの食事や、おむつのことで頭がいっぱいだった」
そんなときに支えてくれたのが、地元の教会だった。さらに、フィリピン人同士で支えあう、緩やかな組合のような組織があったとミヤビは言う。
「水や食べ物を教会が援助してくれました。お金も援助してもらった。フィリピン人同士で、なんとか助け合いました」
日当1万円でゴミを分別する仕事
震災直後は、津波に加え、重油が流れ出して大規模な火災が起きた。街は壊滅状態になり、彼女たちが見慣れた街は、すっかり瓦礫の山と化していた。
日中勤めていた会社もなくなり、フィリピンパブやスナックも消えた。津波に襲われ、市内でスナックを経営していた知り合いのフィリピン人のママも亡くなったという。
再びモニカが話す。
「震災の後、夫とは離婚しました。だから、1人で生きていくために、私はたくさん働きました。流されてきた土砂や瓦礫など、ゴミを分別する仕事をしてお金を貯めたんです。その仕事を気仙沼で3年、同じ仕事を郡山市で1年間やりました。他のフィリピン人も、私と同じゴミの仕事をたくさんしていた。1日で1万円もらえるから、すごく助かったんです」

必死に生活を立て直しながらモニカは再び、この気仙沼での生活を始めた。夜は仮設店舗で営業するスナックで働いた。
「震災の後は、瓦礫の撤去もあるし、建設現場の作業員たちが、たくさん店に来てくれましたよ。特に大阪や九州からのお客さんが多くて、いつも店が賑やかでした」
彼女が勤める店も、約5年前に仮設店舗から今の新しく建ったビルの1階に移転し、営業を再開した。だが、今度はコロナ禍が彼女たちを苦しめたという。
「やっと今までの生活を取り戻せると思っていたら、コロナになってお客さんが急にいなくなっちゃった。最近ですよ、お客さんが少しずつ戻ってきてくれたのは」
そう話すモニカだが、数年前に日本人と再婚したようで、その顔は実に幸せそうだ。
相手は、気仙沼で飲食業を営んでいるという。事情があって、姉の子供3人を養子に迎え、気仙沼での生活もたいぶ落ち着いてきたという。
「下の子は今、学校で、バレーボールやテニスに夢中になっています。上の娘は、日本の大学に行きたいと言っているので、私、もっと頑張らないとね」

そう明るく話す彼女に、この街のどこが好きなのか聞いてみた。
「すごく生活がしやすいところかな。人も優しいし、食べ物もおいしい。あと一番のお気に入りは、街のイルミネーションがステキなところ」
この12年で経験した数々の苦難は、焼酎をグラスに注ぐ彼女の手に刻まれた深い皺が物語っているようだった。
取材・文/甚野博則
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama