徳川家康が天下掌握を確定させた「大阪の陣」。そこには数々の家康の謀略があったとされているが、実際はどうだったのか。また、もし豊臣秀頼が合戦の最初から出馬していたら、家康は首を取られていた側だったのかもしれないという事実があったという説をご存知だろうか。『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書) より、一部抜粋、再構成してお届けする。

#1
#2


方広寺鐘銘事件の真相


大坂の陣となった方広寺鐘銘事件については、近年見直しが進んでいる。

一般的なイメージとしては、長大な銘文の中からわざわざ「家」「康」「豊臣」を拾い出してきて、意図的に邪推、曲解したというものだろう。

ところが、これらの文字は偶然入ったわけではない。

銘文を考えた東福寺僧の清韓は弁明書で「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也。分けて申す事は昔も今も縁語に引きて申し候事多く御座候」と、「家康」の名を意図的に織り込んだことを告白している。

諮問を受けた五山僧たちも「銘の中に大御所様の諱書かるるの儀いかがわしく存じ候…(中略)…五山に於いて、その人の儀を書き申し候に、諱相除け、書き申さず候法度御座候」など、全員が諱を書くこと、あるいは諱を分割することを批判している。

この五山僧たちの批判については、「第一に家康の意を迎え、第二に清韓長老に対する嫉妬からしても、もとより注文通りの批判を与うべきは、言うまでもない」(徳富蘇峰)など、家康に忖度したと古くから考えられてきた。



けれども、当時の社会において諱は当人と密接不可分という考え方があった。

拙著『応仁の乱』でも紹介したように、現実に相手の諱を利用して呪詛する「名字を籠める」という作法も存在した。目下の者が目上の者を(たとえば「家康様」などと)諱で呼ぶことが禁じられていたのは、このためである。

確かに、家康お抱えの儒学者である林羅山の見解は、荒唐無稽でこじつけ以外の何物でもない。

羅山は「右僕射や源朝臣(右僕射は右大臣の唐名。前右大臣の徳川家康を指す)」の句は、源朝臣(家康)を射るという呪詛だと主張した。

さすがにこれは強引で、徳富蘇峰が「曲学世に阿る」と非難したのも無理はない。だが、逆に言えば、五山僧たちは呪詛・調伏の意味があると決めつけた羅山とは一線を画しており、諱を分割すべきでないという常識的見解を表明したにすぎないのである。

歴史学者の笠谷和比古氏は「慶祝の意に出たものであるならば、あらかじめ家康の諱を織り込むことについて何がしか事前に断っておくか、幕府側に草案の披閲を受けておくべき筋合いのものである」と指摘している。

徳川方が鐘銘の問題を必要以上に騒ぎ立て政治的に利用したことは否定できないが、豊臣方に落ち度があったことは事実だ。徳川方のこじつけ、難癖とは言えない。

拙著『戦国武将、虚像と実像』で指摘したように、江戸時代に徳川家の側から同事件を叙述した歴史書などが、片桐且元を取り込むなど豊臣家の分断を図った家康の権謀術数を称賛したため(江戸時代の価値観では大坂の陣は家康による謀反鎮圧であり、正当な軍事行動である)、近代以降、主家の豊臣家を陰謀で追いつめた徳川方の横暴として実際以上に印象づけられることになった。

後世の史料の脚色を排して、『駿府記』など良質の史料に基づく限り、家康の同事件への対応はことさらに豊臣家を挑発したものとは言えず、常識的な政治交渉の範疇に収まると評価できよう。


籠城策以外の作戦はあり得たか


通説では大阪冬の陣において、真田信繁・後藤基次らは宇治・勢多進出作戦を提案したが、豊臣家首脳部の反対により籠城策に決した、とされる。

けれども、大坂冬の陣での宇治・勢多進出作戦の初出史料は、現在確認されている範囲では実録『難波戦記』である。史実とはみなしがたい。

徳川家康のブレーンである金地院崇伝が細川忠興に送った書状には「大坂城中には有楽(織田有楽斎)・大野修理(治長)・津田左門(織田頼長、有楽斎の子)、かようの衆取持にて、牢人衆引き籠もり、籠城の用意と相聞え候」(『本光国師日記』慶長十九年十月十九日条)とある。

大坂方は最初から籠城の準備を進めている、というのが徳川家の認識だった。

真田信繁が九度山を出たのは十月九日であり(「蓮華定院覚書」など)、大坂入城は十日頃と考えられる。徳川家康は十月六日には本多忠政ら近畿の大名に出陣を命じており、忠政らは十六日頃には伏見に着陣している(「譜牒餘録」など)。



慶長五年(一六〇〇)七月、挙兵した石田三成ら西軍数万は、徳川家康の家臣である鳥居元忠ら二〇〇〇人が籠もる伏見城を攻撃したが、十日以上かけてようやく攻略している。

大坂冬の陣当時、伏見には家康が置いた城代(松平定勝)がおり、本多忠政らの着陣前に真田信繁らが伏見城を落とすだけでも至難の業だろう。

宇治・勢多進出案は時間的余裕を考えると現実的ではなく、豊臣家としては大坂城の防備強化に専念するしかなかったというのが実情ではないだろうか。

上の挿話は、真田幸村を軍師と位置づけるために生み出されたものと思われる。現実の真田信繁は現場指揮官の一人にすぎなかった。

幸村を軍師にするには、大坂方の戦略・作戦を立案する場面を作る必要があったのである。


偽りの和睦だったのか


徳富蘇峰が「和睦のための和睦でなく、戦争のための和睦」と評したように、徳川家康が大坂冬の陣で講和したのは大坂城を裸城にして攻めやすくするのが目的だった、と古くから考えられてきた。

しかし、和睦交渉を細かく見ていくと、必ずしも謀略とは言えない。

慶長十九年十二月八日、大坂方の織田有楽斎・大野治長が徳川家康に対し書状を送り、大坂城の牢人に寛大な処置を願うと共に、秀頼の国替えについて、どの国を想定しているのか内意を尋ねた(『駿府記』)。

ここから、家康が和睦交渉において、当初、牢人の処罰・秀頼の国替えを条件として提示していたことが分かる。

家康は有楽斎らの問い合わせに対し、牢人を処罰しないことを約束すると共に、秀頼を大和国へ転封させるつもりだと伝えたという(『大坂御陣覚書』)。

その後、家康は豊臣方に和睦条件として、淀殿を江戸に人質として差し出すか大坂城の堀埋め立てを要求した(『大坂冬陣記』)。

これに対して大坂方は、淀殿を江戸に人質として差し出すが、牢人衆に恩賞を与えるために知行を加増して欲しいと要求した。家康が反発したのである。



以上の経緯から分かるように、家康は甘言によって大坂方を騙すようなことはしていない。

家康は徳川家の面子が保てる形の和睦を望んでいた。後で反故にするつもりなら大幅に譲歩して妥結すれば良いのにそうしなかったのは、和睦が成立した時には遵守する意思を持っていたからだろう。

二十日に家康が秀頼に与えた誓詞では、牢人の罪は問わない、秀頼の身の安全と知行を保証する、淀殿を人質として江戸に差し出す必要はない、大坂城を秀頼が明け渡すならば望み次第の国を与える、といった条項が定められている(『大坂冬陣記』)。

一方、秀頼も二十二日に家康に誓詞を提出し、今後は家康・秀忠に謀反の心を持たないこと、噂に惑わされず不審なことがあれば家康に直接問い合わせることを誓っている(『大坂冬陣記』)。

上の誓詞の内容だけを見ると、豊臣家にかなり有利な和睦と言えるが、土佐藩山内家に残る覚書では、大坂城惣堀を埋めること、牢人を召し放つことも秀頼側が約束したという。

徳川家から見れば、豊臣家の今回の挙兵は「謀反」に他ならず、豊臣家が何も失わずに現状維持ということになれば、天下を治める徳川家の威信に関わる。

実際、『大坂御陣覚書』によれば、和平会談で家康側は「大御所様(家康)自ら出馬して、何も得ずに和睦しては、武門の名誉に傷がつく」と主張している。また、反乱の再発防止のためにも、大坂城の無力化と牢人衆の追放は必須だった。

これらを踏まえると、和睦内容のうち、直ちに履行すべき事項は、徳川家による秀頼の地位確認と牢人の赦免、関東方・大坂方双方による大坂城の堀の埋め立てであったと言えよう。

秀頼の転封や秀頼あるいは淀殿の江戸在住を家康が強制しなかったのは、豊臣家の面目への配慮であり、最終的には豊臣家に受け入れさせようと考えていたと推測される。

豊臣家の武力では、牢人衆の追放という条項を履行するのは困難である。となると、代わりに秀頼の転封、もしくは秀頼・淀殿いずれかの在江戸を受け入れるほかなくなる。

この条件が実現すれば、豊臣家が家康に臣従したことが明確になる。片桐且元の三箇条の提案からもうかがえるように、大坂の陣は、豊臣家を臣従させるために家康が起こした戦争である。逆に言えば、豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、豊臣家を無理に滅ぼす必要は家康にはなかったのである。


大坂城内堀埋め立ての真実


徳川家康が豊臣家を欺き、大坂城内堀埋め立てを強行したという通説も、学界では否定されつつある。確かにこの逸話は、『大坂御陣覚書』『幸島若狭大坂物語』『元寛日記』『翁物語』など多くの書物に記されている。けれども、これらはあくまでも後代に記された物語である。

笠谷和比古氏が明らかにしたように、大坂城の堀埋め立て工事に関する同時代の一次史料には、これらの話は見えないのである。

細川忠利・毛利輝元ら関東方として従軍した諸大名は国元宛ての書状で、和睦条件に二の丸・三の丸の破却が入っていると述べている。

これに従えば、本丸のみを残して他は全て破却することを、大坂方も同意していたと見るべきだろう。

加えて、『本光国師日記』(金地院崇伝の日記)や『駿府記』を読む限り、大坂城の堀の埋め立て工事には約一ヶ月を要している。埋め立てが和議の内容に違反していたとしたら、大坂方がその間、手をこまねいていたはずがない。

内堀埋め立てに大坂方が同意するはずがない、と思う読者がいるかもしれない。しかしそれは、冬の陣で大坂方が優勢だったという先入観に基づく誤解である。

『大坂軍記』などで大坂方の奮戦が特筆されたため、冬の陣では大坂方が勝ったように思われがちだが、事実は異なる。

確かに真田丸の戦いなどで大坂方は局地的な勝利を得ているが、攻城軍の中から寝返りが出なかった以上、戦略的には敗れたと言わざるを得ない。

そもそも豊臣家は、豊臣恩顧の大名が味方してくれることに期待して挙兵したのに、誰一人馳せ参じなかったのである。



古来、籠城は外部から援軍が駆けつけてくれることを前提とした作戦であり、外に味方がいなければジリ貧になるだけである。

『駿府記』によれば、大坂方は木製の銃を大量に使用するほど武器の不足に悩まされていた。また『当代記』には、十二月に入って城中の火薬が欠乏してきたことが記されている。

武器・弾薬が底を突きつつある中、大坂方は和睦に応じるしかなかった。大砲に怯えた淀殿が和睦を支持したという話は後世の創作にすぎない。

それにしても、内堀埋め立ては大坂方にとって致命的であるように思える。苦境に立っていたとはいえ、なぜ大坂方は認めたのだろうか。

一つには、和睦を結べば時間稼ぎになる、と判断したからと考えられる。老齢の徳川家康が亡くなれば戦局を打開できる、という希望的観測があったのだろう。いざとなれば、埋められた堀を掘り返せば良いとでも考えていたのかもしれない。

『大坂御陣覚書』は、二の丸・三の丸の破却は大坂方の担当と決まっていたのに、関東方が手伝うと言って破却してしまった、と記す。

これはありそうな話である。

大坂方は、二の丸・三の丸の破却工事を意図的に遅らせるつもりで、講和に同意したのだろう。ところが、その思惑を見抜いた関東方が破却してしまった。

これは厳密には約束違反だが、大坂方にもやましいところがあるので、強く抗議できなかったのではないか。

平山優氏は、大坂城の内堀埋め立ては、打倒徳川は不可能と悟った豊臣家にとっても好都合だったのではないか、と推測している。

大坂城の防御を支える堀が全てなくなれば、牢人衆も再戦しても勝ち目がないことに気づき、それを契機に城を退去するだろうという目算があったのではないか、というのだ。

しかし案に相違して、行き場のない牢人たちは内堀埋め立て後も城に居座ってしまった。

笠谷氏は、内堀埋め立てに憤激する牢人たちの怒りの矛先をそらすため、内堀埋め立てに豊臣家が同意していた事実を隠し、徳川家による謀略と喧伝した可能性を指摘している。


真田信繁は徳川家康の首を取れたか?


大坂方の牢人衆は、年齢は高いものの実戦経験豊富であり、大坂の陣でも冷静に戦った。

一方、関東方では大名当主や重臣層が関ヶ原合戦の時から世代交代しており、初陣もしくはそれに近い者が非常に多かった。

真田丸の戦いで関東方が大損害を受けたのも、戦闘経験に乏しく血気盛んな若武者たちが手柄を焦り、楯や竹束の準備もせずに不用意に突撃して、真田隊の鉄砲の的になったからである(『大坂御陣覚書』など)。

加えて東軍は、兵力こそ十五万を超えるものの、諸大名の軍勢の寄せ集めであった。大名たちは武功を競ってしばしば抜け駆けし、また友軍が大坂方に寝返るのではないかと互いに疑心暗鬼になった。

大坂夏の陣の最後の決戦である天王寺口の戦いでも、東軍諸隊の足並みが乱れた結果、徳川家康は窮地に陥った。

紀伊和歌山城主の浅野長晟(豊臣恩顧の浅野幸長の弟)が、天王寺口の西側の今宮を経由して大坂城に向かうべく、越前北荘城主の松平忠直の西側に出ようとしたところ、浅野軍を見た東軍のあちこちから、浅野が寝返ったとの流言が飛び交った。

これに越前隊をはじめ東軍諸隊が動揺し、陣形が崩れた。真田信繁はこの機を見逃さず、家康本隊に向けて突撃を敢行した。

家康の旗本衆は周章狼狽して逃げ惑い、家康の馬印まで倒れた。家康の馬印が倒れたのは、三方ヶ原の敗戦以来である。

家康の側にいたのが旗本の小栗久次ただ一人だった瞬間すらあったと伝わる(『三河物語』)。『イエズス会日本年報』によれば、さしもの家康も一時は切腹しようと考えたという。



にもかかわらず、信繁が家康を討ち取れなかったのは何故だろうか。

日本側の諸史料によると、大坂方の優勢を確信した信繁と大野治長は今こそ豊臣秀頼が出馬すべき時と話し合い、治長は秀頼の出馬を促すために大坂城に戻った。

ところがその姿を見た大坂方の将兵は、治長が城に逃げ帰ったと勘違いして崩れ始めたという(『大坂御陣覚書』など)。

治長の大坂城帰還が合戦の明暗を分けたという記述は、『イエズス会日本年報』にも見える。

治長は秀頼自らが戦場にいるかのように見せるために秀頼の旗印を掲げていたが、旗印を掲げたまま秀頼を呼びに戻ったため、大坂方の軍勢は秀頼・治長の敗走と誤解して戦意を喪失した。

歴史にifはないと言うが、もし豊臣秀頼が合戦の最初から出馬していたら、大坂方は勢いづき、真田信繁が徳川家康の首を取っていたかもしれない。

徳川家康にとって大坂の陣は決して楽な合戦ではなく、一定のリスクを伴うものだった。

家康にとってベストシナリオは、武力行使せずに豊臣家を屈服させることだったと考えられる。家康が是が非でも豊臣家を滅ぼそうとしていた、という先入観を取り払った上で、大坂の陣を再検討することが求められよう。

文/呉座勇一



#1『関ケ原の戦い「徳川家康神話」崩壊か…新説「問鉄砲はなかった」の真意に歴史学会に衝撃走る!』はこちらから

#2『徳川家康=狸親父を決定づけた「大坂の陣」での卑怯技…23歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ「攻めの手口」の真意とは』はこちらから


『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

呉座 勇一 (著)

2023/9/13

¥891

232ページ

ISBN: 978-4022952349

教科書や小説に描かれる戦国時代の合戦は疑ってかかるべし。信長の鉄砲三段撃ち(長篠の戦い)、家康の問鉄砲(関ヶ原の戦い)などは後世の捏造だ! 戦国時代を象徴する6つの戦について、最新の研究結果を紹介し、その実態に迫る!