自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てることで、子どもたちの「自己肯定感」や「身体感覚」、「非認知能力」がぐんぐんと育つと注目を集めている幼児教育のムーブメント、通称「森のようちえん」。『ルポ 森のようちえん』(集英社新書)の著者・おおたとしまささんと、同書を大絶賛している社会学者の宮台真司さんによる白熱の対談の第2弾をお届けする。

いま日本中で急速な広がりを見せている、注目すべき幼児教育のムーブメントがあります。自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てる幼児教育・保育活動、通称「森のようちえん」です。そんな森のようちえんを教育ジャーナリスト・おおたとしまささんが徹底取材し、集英社新書『ルポ 森のようちえん』にまとめました。



実は、同書を大絶賛しているのが社会学者の宮台真司さん。宮台さんはこれからの日本社会の希望を「森のようちえん」に見出しているとのことですが、いったいどういう意味なのでしょうか? 幼児教育や子育てを通して、これからの日本社会が変わっていく可能性があるのでしょうか? おおたさんと宮台さんによる白熱の対談、中編をお届けします。


社会学者・宮台真司氏(右)と教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏(左)


宮台 80年代に「言葉と法と損得」に閉ざされたクズである新住民が大量発生したのは、60年代の団地化が背景です。僕は子どものころたくさん引っ越ししたからわかるけど、団地にも「いい団地」と「悪い団地」があってね。

土地の文化との連続性がないニュータウン的な団地が「悪い団地」。小学校の教室に団地の子しかいない。他方、教室に団地の子も農家の子も地元商店の子も医者の子もヤクザの子もいるのが「良い団地」。

「悪い団地」で育って共同身体性を失った子が、こんどは親になって、「言葉と法と損得」に閉ざされて子育てするようになったのが80年代。このクズ親たちは、システム(市場と行政)が完備していれば子どもが育つと思い込みました。

おおた 里山的な自然環境があって、そこで育まれた独特の文化があって、そのうえに人々の暮らしがあるというように連続性がある場所では身体性も担保されやすいんだけれども、経済性優先で、さきほどの言葉を使うならロゴス100%で計算してつくられた環境では、人間が劣化していくということですよね。

宮台 それが日本の劣化の根本課題です。だとしたら、子どもを森のようちえん、あるいは森のようちえん的な環境に置くしかないじゃないですか。親や先生から言葉で命令されない、「子どもの領分」が確保された場所に置くしかない。

おおた それで宮台さんはご自身でも『ウンコのおじさん』運動とかしているわけですけれど、性愛ワークショップでも有名じゃないですか。これも同じ問題意識から始めたことなんですよね。

宮台 そう。性愛的な相手が現れたら、男にとっては女と、女にとっては男と、あるいは同性愛の相手と、「同じ世界」に入って「一つになる」ことができればいい。そのための力を取り戻させるためのワークショップです。

さっきのアフォーダンスでいうと、ふたつの異なる身体なのに、すべての事物に同じようにアフォードされる──コールされて自動的にレスポンスできる──ようになれるかどうかということです。

性愛ワークショップでわかったのは、幼少期に友達と「黒光りした戦闘状態」で団子になって一緒に遊んだ経験があるかどうかがキモだという事実。そういう経験がないひとは、いくら性愛ワークショップをやっても、もうダメなんです。

おおた 言葉を介さずに同じ世界に入る原体験をもっているひとは、大人になってからでもきっかけさえあればその感覚を取り戻すことができる。でもそもそもその原体験がないと厳しいということですね。

宮台 そう。「あの感じを思い出せ」って言って、通じるかどうかがキモだってことです。カテゴリーを超えて「同じ世界」で「一つになる」感覚。それを思い出せれば、性愛だけじゃなく、いろんな人間関係が変わります。

その感覚があれば、「在日は敵だ」みたいなウヨ豚にも、「男は敵だ」みたいなクソフェミにもならない。愛国者や平等主義者のつもりで、カテゴリーと結びついたステレオタイプをまき散らすおぞましい差別主義者に、ならずに済みます。

おおた だから宮台さんの性愛ワークショップというのは、決して性的興味の対象を思い通りにしようってことが目的ではなくて、人間が本来もっている共同身体性を取り戻すための入口として性愛を利用するワークショップだということですよね。

宮台 そういうことです。ちなみに、小さいときにそういう遊びの記憶がなくても、激しい武道やスポーツの訓練をしてきたひとであれば、カテゴリーを超えて「同じ世界」で「一つになる」感覚を知ってるから、やりやすいんです。

「ナンパ」って言葉は、劣化した連中の営みを指し示しがちだから嫌ですけど、気になるひとに声をかけるとき、うまくいくかいかないかは、技術の問題じゃなくて、「同じ世界」に入れるかどうかってことです。

「同じ世界」に入るっていうのは、共通にアフォードされてセンス・オブ・ワンダーが働いている状態です。そこまで説明しても「ミラーニューロンですね」とか「趣味が合うってことですか」とか頓馬なことを言うやつに、付ける薬はない。

「クソ化」した社会で育った子どもが大人になると……


おおた とすると、経済原理優先でつくられた都市部のニュータウン化・新住民化の流れの中で、共同身体性を失った子どもたちが大人になって損得勘定に囚われたまま社会を構成するようになり、ますます社会は劣化するし、そのひとたちに育てられた子どもも「同じ世界に入るって何?」って状態になるっていう悪循環が起きているわけですよね。

子どもを社会化するというのは教育の一側面ではあるわけですけど、その社会がクソ社会だったら……。

宮台 整理します。教育は、教育意図があるひとが子どもに何かを伝えて意図通り学ばせることです。それとは別に社会学には「社会化」という概念がある。これは、社会にうまく適応できるように、社会が子どもを「洗脳」することです。

教育の主体はひとですが、社会化の主体は社会です。だから、教育の失敗──教育意図の挫折──が社会化の成功をもたらすことがある。おおたさんや僕は、高校教育がめちゃくちゃだったから、まともに社会化されたんです(笑)。

逆に、「いい学校」で「いい子ちゃん」だったことで、社会の外で使い物にならない人格になったりもする。いずれにせよ、社会化とは、「社会をうまく生きられるように、成育環境が子どもを方向づけること」です。

だから、社会化とは「社会による洗脳」です。とすると、その社会がクソだったらどうしますかってことになる。そして、いまの社会は間違いなくクソ社会です。「クソ社会」とは「言葉と法と損得の外側を消した社会」のことです。

クソ社会はクズ人間を育てます。「クズ」とは「言葉と法と損得へと閉ざされた人間」のことです。「言外・法外・損得外」でシンクロして「同じ世界」で「一つになる」ことが、できない人間です。

クズは、新住民親みたいに、社会から祭りや性愛を消去します。彼らがいう祭りや性愛は「言葉と法と損得」の枠内に縛られた「からっぽ」。社会から祭りと性愛が消えれば、ひとは力を失い、まともな仲間や家族も作れず、社会は滅びます。

だから、このクソ社会による洗脳──その先兵がクズ親やクズ教員──から、子どもを奪還する必要があります。「言葉と法と損得」に閉ざされたしょぼい教育から、子どもたちを守らなきゃいけない。

その実践が、僕がやる性愛や親業のワークショップや「ウンコのおじさん」プロジェクトであり、森のようちえんであり、それを広げようとしているおおたさんの活動です。「沈みゆく日本の中で、沈まない界隈を残す実践」です。

おおた 社会がロゴス的な意味で「進歩」しているんだからそれに適応できる子どもを育てようというのが昨今の教育の潮流じゃないですか。でも、その「進歩」は実は「クソ化」だったりする。だとしたらそこに安易に適応していいんだろうかと思うわけです。

一方、宮台さんがおっしゃる「共同身体性」とか「同じ世界に入る感覚」というものは、人間の本質として何万年も前から変わらないものですよね。

宮台 このあいだまで普通にあったことです。

おおた グローバルな競争社会を勝ち抜くためにみたいな発想から、たとえば義務教育の9年間の中で、あれやんなきゃいけない、これやんなきゃいけないって、損得勘定的なもの、ロゴス的なものが次から次へと詰め込まれていくことによって、もっと人間として本質的な土台の部分がどんどん削られていっているように思うんですよね。

だとすれば、時代の変化や社会の変化が激しいときほど、この土台の部分は崩しちゃいけないよねっていう教育観に立ち戻る必要があるんじゃないでしょうか。

宮台 親が子どもを一生懸命コントロールしようとしている。先生も子どもをコントロールしようとしている。性愛でも、男が女をコントロールしようとしていて、女も男をコントロールしようとしている。実におぞましい。

で、コントロールできないと「どうしたらいいんでしょうか」とか言ってくる。僕、本当にね、このひとたち全員即死してほしい。人間や社会というものを、まったく分かっていないくせに、人間をコントロールしようとしているからです。

おおた 出ました。「即死系」。これ、宮台用語ですからね(笑)。

最近話題の「メタバース」がもつ意外な危険性


宮台 必要なのは、コントロールじゃなく、フュージョンです。僕の子どもの扱いって、古代ギリシア人と似ているでしょ。そこでの僕の言葉はロゴスじゃないんですよ。言葉の外を想起させるための「兆候としての言葉」です。

おおた 「ウンコ」なんてピュシスそのものにつながる言葉ですからね。子どもがそういう言葉を好むのって、そういう言葉が言葉の外とつながっているって知っているからですよね。それを「そんな言葉は使っちゃダメ!」なんてやったらもったいない。

宮台 僕はもともと数理社会学者で、ロゴスの達人です。でも、あるときから、言葉の外につながる言葉を交ぜるようにした。具体的には96年に朝日新聞の論壇時評「ウォッチ論潮」を担当したときです。さもないと伝わらないからです。

おおた 僕もよく、「子どもにこんなことがあったんですけど、どんな『声がけ』をすればいいですか?」みたいに聞かれるんですけど、ほとんどのケースで言葉って要らないんですよね。まなざしであったりふれあいであったりで十分伝わる。特に親子関係の場合は。

宮台 「にらめっこしましょ」でもいいけどさ、子どもの目をじーっと見る。毎日子どもの目をじーっと見ている時間ってどれだけあるんでしょうね。目をじーっと見るだけで言外が露出するのにね。

おおた そうやって親子の間の身体性も失っていく。そうなるともう「身体性って何?」って、実感として伝わらない。そこにメタバースという、もう一つのユニバースが生まれようとしている。年末年始の番組で、宮台さんはこれを新たな権威主義であると指摘して、それに抗うゲリラ戦的な対応として森のようちえんにも触れていました。

宮台 もう20年の歴史がある話ですけれど、テクノロジストとして大成功して投資家になったピーター・ティールの新反動主義から、作家ニック・ランドの加速主義へ、というアメリカの思想的な流れがあります。

「ドラッグとメタバースとベーシックインカムがあれば再配分などしなくてもひとは幸せになる」と訴えるわけです。「感情が劣化した一般人をドラッグとメタバースのテック世界に収容せよ、政治は卓越者である俺たちが統治する」と。

そうすることで、卓越者が「古い権威主義」で統治する中国と、やっと闘えるようになるのだと。民主主義の制度をそのままに、テックを使ってひとを民主政から引き剥がすという意味で、僕は「新しい権威主義」と呼びます。

おおた 寡頭政治的なスタンスですね。

宮台 はい。中国は「古い権威主義」。政治は俺たちに従えと。トランプ支持者の知的中核に位置する新反動主義者は「新しい権威主義」。クスリ決めてゲームやってろと。共通して民主政を信頼しない。クズの投票で政治が破壊されると。

おおた 宮台さんもそれはよく仰いますよね。

宮台 20世紀半ば、政治学者ラザースフェルトが、民主政が働く条件は、小集団のオピニオンリーダーがクズを折伏することだとしました。幸いその頃から中流が分厚くなり、クズを含めてひとが人間関係資本に恵まれるようになった。

中流が分厚くなる以前の20世紀前半は、ワイマール議会がヒトラー独裁を認めたことで、民主政はやばいというのが政治学の常識だった。それが、製造業の隆盛で中流が分厚くなり、人間関係資本が豊かになって民主政はOKとなった。

ところが冷戦終焉後、90年代後半からのグローバル化(人・物・カネの移動自由化)と、テック化(インターネット化とIT化)で、あっという間に中流が分解して人間関係資本が空洞化。感情の釣りが常態のポピュリズム政治になった。

中流の分解と人間関係資本の空洞化で、生きづらくなる。心が痛んだひとに、排外主義と差別で痛み止めを処方してやろうというのがポピュリズム政治。それで民主政がめちゃくちゃになった例が、ブレグジットとトランプ大統領誕生。

自分が気持ちいいものに投票する生きづらいひとばかりの社会では、民主政は機能しない。排外主義や差別の煽りで、戦争や内戦も起こる。いっそ実例を見せてしまえというのが加速主義だけど、「新しい権威主義」の現実性がよくわかる。

「古い権威主義」も「新しい権威主義」も、感情的劣化を前にした現実的処方箋だけど、別の現実的処方箋を提案するひともいる。自由主義のチョムスキーや無政府主義のグレイバーや社会学主義の宮台がいう、「小さなサイズの民主政」だ。

「大きなサイズの民主政」では、リソースを持つ者たちがフィルターバブルを構築してデマでひとを動員します。誰がどんな状況にあるか互いに目に見える「仲間意識」がある範囲内で、民主政を回さないと、デマ政治を避けられません。

でも、「小さなサイズの民主政」に必要な近隣の「仲間意識」なんていまさら復活できるのか。無理そうです。でも、ゲーム企業ナイアンティックのCEOジョン・ハンケは、「テックを使えば復活できる」と言うんですね。

彼は、ユニバース(現実)から人々を引き離すメタバース(仮想現実)は地獄だと訴えます。確かに人々をメタバースに収容したら、自称「卓越者」が気候変動を利用した大絶滅計画を実行しかねません。信用できないんですよ。

ハンケはあくまでAR(拡張現実)にこだわる。初期ポケモンGOやいまのピクミン・ブルームみたく、万人に同じモンスターやフラワーが拡張現実としてオーバー・レイされ、現実の出会いを触媒するようなテックを提案するんです。

おおた 現実から人間を遠ざけるためのメタバースなのか、つながっているためのメタバースなのか。

宮台 そう。だから、「良いメタバース」と「悪いメタバース」があるということです。一般的にいえば、「良いテック」と「悪いテック」があるんだよ。

おおた さきほどの「良い団地」と「悪い団地」とそっくりな構造ですね。

宮台 そう! そっくりなんです! 現実から閉ざされた「悪いメタバース」に人々を収容するのは、非常に危険です。そこに気づけないのは、もっぱら身体性のないやつらだと言えます。

ゲーム内で全力疾走するために現実内で全力疾走するトレッドミルや、ゲーム内で殴られたら痛みを感じるボディースーツは、開発済みだし、脳内電気刺激で視覚と聴覚以外の五感を感じさせる研究もイーロン・マスクが進めています。

おおたさんや僕は、それでも身体性においてメタバースはユニバースに追いつけないと思う。でも、そもそも身体性がない人間は、追いついたかどうかをジャッジできません。むしろ「メタバースで身体性が回復した」と言い出すだろうよ。

だから、ここも闘いなんですね。メタバースとユニバースの綱引き。ユニバース側の綱を強く引けるようになるためには、身体性のある人間をたくさん育てないと無理です。つまり、森のようちえんが必要な道理です。

「身体性のある人間」が消えると何が起こるか


おおた いくらメタバースのテックが巧妙化しても「あれ?なんか違うぞ」と気づけるひとの頭数を増やしていかなければ、世界は新しい権威主義に取り込まれてしまう。日本の劣化どころの話ではなくなってきましたね。

宮台 友愛はまだしも性愛の身体性って、メタバースで再現なんてできないよ。

おおた そうですよね。

宮台 でも、おおたさんや僕はできないって断言するけど、そもそも性愛の相手と目を合わせられないし、喋ると固まってしまうようなひとたちには、メタバースの身体性のほうがましだったりするんです。現にそう言ってるひともいます。

こうした人類史的に明白な劣化を、ウヨ豚の不安教育オンリー(妊娠と性感染症と受験失敗の不安ばかり煽って幸いを教えない)と、クソフェミの人権教育オンリー(加害被害の危険ばかり煽って幸いを教えない)が、加速しているんですね。

この流れは、マクロな国民国家規模では変えられないと思います。だから、いまするべきことは、身体性の豊かさの継承線を、いかに途絶えさせないかということです。

おおた 途絶えちゃったらどうなるんですか?

宮台 途絶えさせない目的は、チャンスが訪れたときに巻き返せるようにすることです。途絶えたら、いまのシステムが加速主義的に潰れたときに、巻き返せなくなっちゃうでしょ。

ところで、いずれ巻き返す必要があるのは、なぜか。僕は高校時代から、特に初期ギリシアを中心とする哲学に詳しいから、「身体性を欠いた倫理」ってあり得ないと思うんですよ。「仲間感覚」があるから、身を捨てる倫理もあるってこと。

最近、イノベイテヴィティを掲げる経済学者たちが中心となって、テストなんかで測定できない能力を「非認知能力」と呼ぶような雑な議論が、主流になっています。さっき「非認知能力」という概念自体がクソだと言いましたね。なぜか。

機能にだけ注目し、人類史の歴史性を弁えないからだよ。だから、僕は「言外・法外・損得外への開かれ」と呼びます。そう呼んで初めて「言葉と法と損得勘定への閉ざされ」が進んできた文明史の全体を、視野に収められるんです。

そうすると、「言葉と法と損得」への閉ざされが、ひとから「力」を失わせるものであることが分かります。「市場競争で勝ち組になるのに必要なのが非認知能力だ」みたいな言い方は、百害あって一利なし。

人類史的には定住は最近です。定住は「言葉・法・損得勘定」が支える。そんな生活はひとの集団から力を奪う。だから力を回復するべく定期的に祭りをした。そこに「力が湧き出す時空=聖」「その力を使う時空=俗」という区別が生じた。

認知・評価・指令という情報理論の三段階図式を前提とした「認知」の概念は、たとえ「非認知能力」であれ、俗の側に属します。そうじゃなく、何かに接触したときに力が湧くような「聖への開かれ」の能力だと考えなければならない。

なぜ森のようちえんなのか。子どもは森に入ると力を得るからです。もともと子どもには森から力を獲得する力があり、もともと森には子どもに力を与える力がある。子どもが主体で森が環境なんじゃない。子どもと森の相互浸透がある。

クラブに行ったら自然に身体が踊り出すとか、セックスのときに自然に身体が動き出すとかも同じです。そこには主体の選択も決断もない。力の流れに委ねるプロセスだけがあります。必要なのはこの能力なんです。

おおた 対象が自然であれ、性愛の相手であれ、いっしょに踊っているあるいはたき火をしている仲間であれ、一体になったときとか、全体の一部に溶け込んだときに、力が湧いてくる感覚がありますよね。ヒーリングといってもいいんでしょうけれど。それが聖なるものってことなんですよね。

宮台 言葉の外には絶えず力が動いています。初期ギリシアでは万物の外はないと考え、万物の外に神がいるとする思想は堕落だと断定する。なぜか。万物を貫徹する力の流れに乗れない「ノリが悪いやつら」の劣化した構えだからです。

後期ギリシアになると、社会が複雑化し、ノリ(共同身体性)だけでは足りなくなった。そこでプラトンは、「ノリより、考え抜かれた言葉が大切だ」と転向した。それが「万物学(自然学)からメタ万物学(形而上学)へ」という転換です。

おおた なるほど。

宮台 ソクラテス言行録を書いていた初期プラトンは、万物を貫徹する流れにノレる詩人を愛でた。でもアテネの没落が顕著になると、『国家』で「詩人はダメだ」と言いはじめた。これは言わざるを得なくなっただけの、いわば方便だよ。


《次回予告》
日本社会の劣化、社会化のメカニズム、メタバースの危険性、そして古代ギリシア思想。話題は次々と移りながら、いよいよ次回は「民主主義」へ。果たして、現代日本の混迷を深める民主主義を復活させることは可能なのでしょうか。そしてこれからの子育てで一番必要なこととは? いよいよ問題の核心へと踏み込んでいきます。

※本記事は2022年1月10日(月)に本屋B&Bで行われた『ルポ森のようちえん SDGs時代の子育てスタイル』(集英社)刊行記念イベント「『日本の劣化』を食い止めるカギは『森のようちえん』にある!?」の内容を一部再構成したものです。こちらのイベントについては2023年1月10日(火)まで、以下のページでアーカイブ動画が販売されております。
https://bbarchive220110a02.peatix.com/

前編『「日本の劣化」を食い止めるカギは「森のようちえん」にある!? 宮台真司×おおたとしまさ』はこちら
後編『幼児教育のムーブメント「森のようちえん」が持つ真の社会的意義 宮台真司×おおたとしまさ』はこちら


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