談志師匠が書いた、ゆみこ氏のお店のDM
談志師匠が書いた、ゆみこ氏のお店のDM

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

ゆみこ氏の経営するお店を、さまざまな形で応援し続けていた談志師匠。今回は、談志師匠とお店にまつわる思い出の数々。

* * *

私は去年、コロナと言う訳のわかんないウイルスの影響を受けて、25年間営業していたお店を辞めた。百合子ちゃんは「密はダメです!」と言い、安倍さんは「マスクをしてください!」とかわいいマスクを送ってきたが、私が経営していた店は女の子とカラオケとお酒を楽しんで頂く飲み屋で、「密」意外のなにものでもなかった。

未だに先が見えない状況が続く中、飲食業で頑張っている方々を本当に偉い!と思っている。私が最初に始めたお店は六本木で、今のミッドタウン、当時の防衛省の前の路地を入ったビルの2階にあって、15坪くらいの『ひまわり倶楽部』というミニクラブだった。

水商売のアルバイトしかしたことのない私が、無謀にもオーナーママになった。既にバブルは終わっていたが、働かない分、遊んでいた私は六本木に知り合いが沢山いた。忘れもしないオープン初日、Xデーと言われていたオウム真理教のアジトに自衛隊が大勢乗り込んだ日で、朝から新聞もテレビも大騒ぎだった。

こんな日にお客様が来るわけがないと思い、「なんでこんな日にオープンなんだよー」と開店前から落ち込んでいた。しかし、人間の心理とは不思議なもので、大きな事件があると気持ちがハイになるのか? その日、店は大入満員で、水商売はこんなに儲かるのかと驚いた。

バブルが終わったとはいえ、まだ商社や広告代理店、銀行など、みんなタクシーチケットを持っていたし、政治家もヤクザも普通に飲んでいた。お店を応援してくれたお客様と働き者のスタッフのおかげで、いい加減でだらしのない私が、お店を続けることが出来た。  

そんな私の店に、父もよく寄ってくれた。1人でふらっと来る時もあれば、お友達や有名人の方を連れて来てくれたりもした。私のお客様達は、口を揃えて「談志師匠は優しくていい人ですね」と言う。

なぜならば「こんな馬鹿娘の店に、高いお金を払って来てくれてありがとう」と、必ずお客様のテーブル全部にホストのように座って話をしてくれていたからだ。カラオケは嫌いだったが、マイクで得意のジョークや小噺もして、とにかくお客様を大事にしてくれた。スタッフにも優しかった。

和田アキ子さん、団鬼六さん、舞の海さん、林家木久扇師匠、西部邁先生、笑福亭鶴瓶師匠、中村勘三郎さん、松本幸四郎さん、吉村作治さん......。ピコ太郎とテツandトモを連れて来てくれた時には、ギターを持っていたテツトモの「なんでだろー」で大いに盛り上がった。 

2軒目に、階段で上がるしかない4階のワインバー『45step』を六本木にオープンすると、そこにも父は和田アキ子さんと一緒に来てくれた。最後の「談志ひとり会」の打ち上げの後に、父は1人でこの店に来て、私を待っていてくれた。しかし、私は別の『ホワイト』というお店で、山藤章二さん、中尾彬さん、玉置宏さん、高平哲郎さんと一緒に父を待っていた。結局、行き違いになり父と会えなかった。その日の演目は「松曳き」だった。なんかちょっぴりせつない思い出だ。

水商売は誕生日、周年パーティー、七夕祭りなど、集客のためにイベントをする。イベントのたびにお客様にDMをお送りするのだが、私は毎回それを父に書いてもらっていた。父の機嫌のいいときを見計らい「パパ、ゆみちゃんのお店が1周年だから、なんか書いてね!」と頼むのだ。

『バカな娘を持った親は大変なのです、、、。こんな事も書かねばならぬ破目になるのです、、、。
バカ娘、、、といってもいい歳ですが、、銀座に生意気にも店を持って、何と一年保ったのです、とさ、、、
親からお禮を申し上げます。今後共良ろしく、、、と
こんなとこ、、、。2001、九  立川談志』 

これは銀座にお店を出して1年目の時に、父が書いてくれたものです。12年目の時は 『十二周年、、、銀座でよく生きている ほめてやる 立川談志』と書いてくれた。

六本木から移転した最初の店は、ソニー通りのエルメスの並びにあった。飲みに来た父を歩いて駅まで送った時「ゆみこ、銀座はいいなー。東京は銀座があるからいいんだよー。娘の店が銀座にあるっていいなー」と言ってくれた。私は初めて父に認めてもらえた気がして嬉しかった。 

そして、父が亡くなる年に並木通りのポルシェビルの隣に移転した。引っ越しの時には、私は既に父の介護で忙しくて、スタッフだけで開店準備をやってもらった。お店の七夕祭りのDMも父にお願いしていた。最後のDMに『年に一度は 七夕の夜に 立川談志』と書いてくれた。年に一度、父と最後の七夕。7月6日に父はお店に行くと言ってくれた。

新しい店には父のパネルをいっぱい飾り、スタッフもみんな浴衣で、私は父の浴衣を着た。父の大ファンの女の子には「泣いたらぶっ飛ばす!」と言っておいた。その日、熱の高かった父はみんなに抱えられてお店に入ってきた。薄い水割りくらい飲んでもらいたかったが、そんな余裕はなかった。父の手はとても熱かった。