小鳥店を営む檀野家の穏やかな日常は、通り魔事件という悲劇によって終わりを告げた。
息子を殺され、悲しみに暮れる檀野家のもとに、不思議な合唱隊が訪れる。その歌声に次第に救われていく妻と娘。しかし、それは新興宗教だった。

宗教にのめり込んでいく妻・響子を、なんとか救い出そうとする夫・三知男。響子とともに合唱の練習に参加する娘・花音。物語が進むにつれて明かされていく家族の秘密。そして、3人を通して描かれる「神」の正体とは。

『世界から猫が消えたなら』『四月になれば彼女は』『百花』などのベストセラーを発表してきた川村元気さんによる新作小説『神曲』(新潮社刊)は、「目に見えないけれど、そこにあるもの」を信じる気持ちを、「不信」を通して描ききる意欲作だ。
今回、新刊JP編集部は川村元気さんにインタビューを行い、『神曲』に込めた想いについてお話をうかがった。前・後編でお送りする。

(記事・聞き手/金井元貴)

■コロナ禍はエンディングに大きな影響を与えた

――『神曲』について、まずは物語の着想からお聞かせいただけますか?

川村:今はインターネットで検索すると何でも情報が出てくるし、Googleマップを使えば世界中どこでも見ることができる。ふと何でも理解できるような気分になったりもします。

その一方で、「目に見えない力」の価値がすごく上がっている気がするんです。例えば、占いとか、パワースポット、石や星、得体の知れない薬。そういったものに宿る見えない力が信仰の対象になっています。信仰というと昔は神仏が中心でしたが、今は多様化、複雑化しながら、その存在感が増しているように感じます。

「目に見えないものを信じる」というテーマは、小難しく間口が狭いのかなと思って取材を始めたのですが、調べれば調べるほどこのテーマは多くの人にとって切実で、広いなと思ったんですね。

――「広い」とはどういうことでしょうか?

川村:この小説には、神仏から石や星、薬や占いまで様々な「信仰」が出てきます。取材を進めるうち、親族や友人を見渡せば、誰かしらは何かを信仰している人がほとんどだということに気付きました。蚊帳の外の人はいないテーマだなと思いました。

物語の着想を得てから5年ほど、クラシカルな宗教から、新興宗教、スピリチュアルなどについて取材を重ねました。その中で、はたとそうした宗教や信仰の対象を「信じきれない」自分がいることに気づいたんです。

――どこか疑ってかかってしまう、と。

川村:そうです。何を見ても、どこかで疑っている。そこで自分は「信じられる人」ではなく「信じられない人」なんだと気づいたとともに、実はこの感覚は自分だけでなく、今を生きる多くの人の共通感覚ではないかと思ったんです。「信じられる人」よりも「何も信じられない人」の方が圧倒的多数なのではないかと。
僕はいつも「集合的無意識」という、多くの人が内心に感じているが言語化されていない気分を物語で表現したいと思っています。
そこで、テーマが「信仰」から「不信」にスライドしました。

また、僕はこれまで小説で、「不在」を描くことで「在る」ということを描いてきました。『世界から猫が消えたなら』では猫、『四月になれば彼女は』では恋愛、『百花』では記憶というように。そこで今回は「不信」を通して「神」の正体を描いてみようと思ったんです。

――本作の構想が5年前からあったということは、コロナ禍が始まったのは、この小説を書き始めてからですか?

川村:そうです。書き始めたらコロナ禍になって、世界中の人間が「目に見えない」ウィルスに振り回され、インターネットの中には不信が渦巻いていて、何を信じていいのか分からないという人々の声がより如実に顕在化していきました。

取材を続ける中で、ワクチンも信じられない、国も会社も信じられない……そうした不信の声の中に「家族を信じられない」という声があったんです。妻のことが信じられない、夫のことが信じられない、親が何を考えているのか分からない、子どもが何を考えているのか分からない……。そうした声に触れて、自分が書こうとしているテーマに時代が近寄ってきたように感じたんです。

――そうした状況は書き始めた物語に対して影響を与えたのでしょうか?

川村:エンディングには大きな影響を与えました。

主人公一家は通り魔事件で息子を失い、妻と娘が新興宗教に囚われ、坂道を転がるように事態が悪化していきます。そのまま、すごく嫌な終わり方をすることもできたと思いますが、どんでん返しを繰り返しながらあのエンディングになったということは、コロナ禍の中で僕自身が「何かを信じないと生きていけない」という気持ちになっていったからなのだと思います。

――「何かを信じないと生きていけない」という気持ちですか。

川村:そうです。それは裏返しに言えば「何も信じない」ということが幸せそうに見えなかったということなんです。

「自分は何も信じない。少しでも疑わしいものは信じない」という声に対して、「それで幸せになれますか?」と問いかけたときに、おそらくは何も言えなくなるでしょう。「信じない」というスタンスには幸福の答えがありません。

何を信じたいのか。信じるべきなのか。どうすれば信じられるようになるのか。その答えを求めて書いていくうちに、あの結末になっていったんです。

――信じることで幸せになれるという側面はあると思いますが、逆に信じすぎてしまうことにも危ない部分があるのではないかと思います。信仰が強くなればなるほど、逆にそれに縛られてしまう。そういった部分が特に第二篇で描かれている印象を受けました。

川村:第二篇は、とある神を信じ切った妻の目線で物語を書きました。その人から見た世界がどう見えるかが知りたかったからです。
確かに信じることは強さにつながるし、幸せにもつながるけれど、一方で排他的になっていくというところがありますよね。自分の信じているものと対立するものを憎みはじめて、それがひいては戦争を引き起こすこともあります。

だから、信じることの美しさと危なさ、どちらも描かないといけないと思っていました。そのために、偶然か必然か、ダンテの『神曲』に倣った3篇構成になったんです。一つだけの目線だと偏るし、二つだと対立構造になってしまう。三つの視点で立体的に神を描くということはこの物語において、とても大事なことでした。

■物語を追うごとに存在感が小さくなっていく主人公

――この物語は、第一篇では夫・三知男が、第二篇では妻・響子が、そして第三篇では娘・花音がそれぞれ主人公となります。第一篇の主人公である三知男は、新興宗教「永遠の声」にはまってしまった響子の洗脳を解くためにいろいろと手を打ちますけど、第二篇で彼自身も「永遠の声」に入信していたことが驚きました。

川村:梯子を外されたような感覚ですよね(笑)。僕自身も書き始めた当初は、通り魔事件で息子を失い、新興宗教に妻と娘を持っていかれて、残った父親がそれと戦うという話をイメージしていました。ですが取材を進めていくと、そういった状況に置かれた多くの方が自分も入信してしまうという話をよく聴いたんです。

とても意外な話でしたが、よく考えてみれば、家族と一緒にいたいという気持ちが優先されるならば、信じたふりをしてでも新興宗教に入るというのも理解できました。ただ、「信じたふり」で入ったつもりでも、本当に(新興宗教を)信じ始めるケースも多いんです。

――「ミイラ取りがミイラになる」というような感覚ですね。

川村:でも、一般社会でもそういうことってありますよね。最初はあまり会社が好きじゃなかったけれど、だんだんと連帯感が生まれて、帰属意識を持ったりして。それと一緒で、全く信じていないけれど、入った人がいつの間にかのめり込んで最前列にいるということは、宗教に限らず起こり得ることだと思います。

――そうですね。三知男は第一篇の主役ですけど、ああいった形で物語に巻き込まれていくにつれて、どんどん存在感が小さくなっていくというちょっと可哀そうな人物だと思いました。

川村:まさにご指摘の通りで、僕も第三篇までたどり着いたときに、三知男が主人公ではなくなってしまっていて、どうしようと思ったんですよ。本当に事なかれで、ひどいやつなので(笑)

彼から始まる物語ですから、彼を主人公を戻すにはどうしたらいいのだろうと苦悩しました。そのとき、最後のオチを思いついたんです。このラストで彼が主人公になる。神の正体も描けると。

――神へのスタンスを変える三知男や、新興宗教にはまり込んだ響子と比較すると、第三篇の主人公である花音のスタンスは、変わっているようで実は最後まで変わっていないように感じます。周囲の環境は変わり続けているけれど、彼女が信じているものは変わらない。

川村:そうですね。彼女は新興宗教二世ではあるけれども、親から与えられたものではなく、自分で信じるものを見つけていきます。

信じるものを人から与えられるのではなく、自分の目で見て、感じて、自分で決めることができる。現代では、大人ですらそれができない状態になっていると思うんです。だから、この物語の中で子どもがそれをやりきる様子を描きたかったんです。

(後編に続く)