八ヶ岳農園直売所にある広場にて

 先代犬の富士丸、いまは保護犬の大吉と福助と暮らすライターの穴澤 賢さんが、犬との暮らしで悩んだ「しつけ」「いたずら」「コミュニケーション」など、実際の経験から学んできた“教訓”をお届けしていきます。

(末尾に写真特集があります)

年齢と共に変わる温度と距離

 普段暮らしている中で、「心の友」という言葉を使う人はいないと思う。1971年生まれの私と同年代の人は分かると思うが、そんなことを言うのはジャイアンくらいだろう。たとえ使うとしても、冗談かちゃかして言うくらいで、本心から「君は心の友だ」なんて言ったことはない。なんだかこっ恥ずかしいし。

 そもそも「心の友」とは何か。広辞苑によれば「互いに心を知りあった友。また、心を慰めてくれるもの」とある。だから「親友」に近いと思うが、果たして自分にそんな友人はいるだろうか。いるといえばいる気がするし、いないような気もする。 

 というのは、人間関係はお互いに相手をどう思っているかそれぞれ違う。私が親友だと思っていても相手はそうじゃないかもしれない。若い頃はそんな疑いもなく仲の良いやつらと、特に意味もなくしょっちゅう会ったりしていたが、年齢を重ねるにつれお互いの環境が変わると同時に距離も変わる。

 だから、気がつけばいつの間にか会わなくなったりした友人もいるし、新たに仲良くなった人もいる。いずれにしても、時間の経過と共に温度と距離は変わるものだと思う。あくまでも私の場合だけど。

その体勢は楽なのか

犬たちがそばにいる空間

 そんな私だが、犬については「心の友」だと思っている。というか、その言葉が妙にしっくりくる。まさに、互いに心を知りあった友であり、心を慰めてくれる存在だからだ。なぜ突然そんなことを思ったのかというと、こんなことがあったからだ。

「丸山の森」にある山の家

 最近、山の家にひとりと2匹で10日間ほど過ごした。そこは八ヶ岳(長野県諏訪郡原村)にある大吉と福助のために手に入れた山小屋で、標高は1400メートルほど。前の道は幹線道路ではなく、奥に進んでも登山道の入り口があるだけで行き止まりなので、車もほとんど通らない。スーパーまでは車で20分くらいなので、都会に比べるとめちゃくちゃ不便だ。それでも山に来ると大福が喜ぶから通っているうちに、もう慣れた。

 このところのあまりの暑さに避難してきたのだが、妻は自宅のある腰越(鎌倉市)で用事があるらしく戻らないといけない。でも私と大福は山の家に残ることにしたのだ。

頑張って作ったドッグラン

 山の家には仕事部屋を作ったし、ネット環境もあるので、仕事は出来る。ただ、ひっそりとした山の中なので、ほとんど人と接することもない。2、3日に1回スーパーに買い出しに行く以外はずっと家にいるし、誰と話すこともない。

 まさに山ごもりのような状態なのだが、なぜか孤独を感じなかった。それはやはり大福がそばにいるからなのだった。

クッションの柄はシャイニング

 言葉を話すわけでもない。なのに目が合ったり、しぐさでだいたい意思疎通は出来る。私が「散歩行こっか」とか「そろそろ寝よっか」と人と同じように話しかけると、それで通じる。しばらくひとりで過ごしていても、彼らがそばにいるから寂しさは感じない。むしろ、なんともいえない居心地の良さがある。すぐ隣とか、いつも目の届くところにいるし、彼らがそうしたいと思っているのが分かる。

 これが人間だと、さすがに暑苦しいし、ひとりにさせてくれと思うが、なぜか犬たちに対してはそれがない。もっと言えば、私もずっと彼らのそばにいたいと思っている。こう書くと自分でも気持ち悪いが、距離感の違いで、空気のようにあるのが当たり前の存在になっているのだ。恐らく犬と暮らしている人は、普段意識しなくてもだいたい同じ感覚なのではないだろうか。

 夫婦であってもこうはいかない。友達なんかもそうだ。いくら気が合うやつでも、四六時中一緒にいたいとは思わない。そう考えると、犬というのはやはり不思議なやつらだと思う。

心の支えでもある犬

 犬は家族であり、我が子のようであり、心の友でもある。そして同時に、心の支えでもある。彼らがいるから頑張れるし、彼らのためにやりたいことが増える。

ご満悦らしい

 だから富士丸が突然いなくなったとき、いとも簡単に転んで、しばらく起き上がれなかったんだのだろう。失ってから、心の支えだったんだと気がついた。その後、2年半の空白の後、大吉を迎え、さらに福助が加わり、彼らもやはり今では心の友であり、心の支えになっている。

 いつの間にか、私は犬がそばにいないと生きられない人間になってしまったが、心の友と呼べる存在がいて本当に良かったと思っている。

八ヶ岳農園直売所にある広場にて