順風満帆な国造りを進める李成桂(イ・ソンゲ)だが、彼はすでに54歳で後継者の選定も急がなければならなかった。

当時、李成桂には先妻から6人、後妻から2人の計8人の息子がいた。

誰もが、建国の功臣として活躍した先妻の息子から王を選ぶと思ったのだが、なんと李成桂はまだ幼い八男の李芳碩(イ・バンソク)を跡継ぎに決定した。

李成桂が犯した失敗

これには、先妻の息子たちからも大きな不満の声が上がった。

特に最も活躍した五男の李芳遠(イ・バンウォン)は、怒りを露わにした。

八男の芳碩が後継者に指名されたことが許せなかった芳遠。そんな彼の動向を警戒したのが、李成桂の側近である鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。

彼は、先妻の息子たちが「後継者の座を狙う可能性がある」と考えて、先手を打って排除しようとする。

しかし、鄭道伝の企みは芳遠にバレていた。彼は兄弟たちを全員助け出すと、この一件を口実に、逆に鄭道伝と異母弟の2人を殺害してしまった。

これが「第一次王子の乱」である。

愛する子を失った悲しみからか、李成桂は政治への興味を失って1398年に退位。

こうして、実権を握った芳遠だが、彼はそのまま即位すれば王位簒奪の汚名を被ると思って、二男の李芳果(イ・バングァ)を次の王に推薦した(長男の芳雨(バンウ)はすでに亡くなっていた)。

こうして、芳果が2代王・定宗(チョンジョン)となって、芳遠は軍事力を掌握して影の王として君臨した。

1400年、王位に野心を燃やした四男の芳幹(バンガン)が王位を狙うクーデターを企てるが、強大な力をもつ芳遠には敵わなかった。これが、「第二次王子の乱」である。

争いを鎮圧した芳遠は、芳果から王位を引き継いで、ようやく3代王・太宗(テジョン)として即位した。

李成桂の建国した朝鮮王朝。その幕開けは、彼の息子たちによる骨肉の争いが頻発した悲しいものだった……。

(文=康 大地/カン・ダイチ)