1544年、中宗(チュンジョン)は病状の悪化によって亡くなり、章敬(チャンンギョン)王后の息子である峼(ホ)が12代王・仁宗(インジョン)として即位する。

しかし、父親である中宗の死を悲しんでいた彼は、即位してからずっと体調を崩したままだった。

そんな王を周りの者たちは心配していたが、文定(ムンジョン)王后の態度は冷たかった。

1545年、文定王后は「祭祀の後で挨拶に来なさい」と言って、仁宗を呼びだす。体調が悪いにもかかわらず、文定王后のもとへ行こうとする王を、臣下たちは無理しないようにと止めるが、仁宗は「息子として行かねばならない」と言って、臣下たちの言うことを聞かなかった。

彼が訪ねていくと、それまで冷たい態度を取っていた文定王后の機嫌がよく、仁宗に餅を勧めてきた。何か裏があると思ったのだが、仁宗は餅を食べてしまった。

即位直後から体調を崩していた仁宗。餅を食べてからは、下痢や高熱を出すようになり、さらに症状が悪化して気を失ってしまう。

彼の治療に当たった医官たちの看護のおかげで意識が戻った仁宗だが、絶対安静にしていなければならなかった。

権力を握った文定王后

日に日に体調を悪化させていく仁宗。その後も病状が回復することはなかった。

一方の文定王后は、王が大変な状態だというのに、見舞いもせずに外出騒ぎを起こして、臣下たちを混乱させた。

1545年7月、仁宗が世を去った。彼の死に関してある1つの可能性がある。それは、仁宗が文定王后に毒殺されたのではないかということだ。

空席となった王の座だが、彼には息子がいなかったため、文定王后の息子である慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。ついに、自分の息子を王にすることができた彼女は、仁宗の葬儀を王のものとは思えないくらい簡単にすませてしまう。

新たな王となった明宗だが、彼はまだ11歳と幼かったため、母親である文定王后が摂政を行い、幼い王の代わりに政治を仕切った。

これが大変な悪政で、餓死した民も多かった。絶対になってはいけない人物が「女帝」になってしまったのである。

(文=康 大地/カン・ダイチ)