王となった世祖(チョンジョ=イ・サン)は、自分が荘献(チャンホン)の息子であることを強調して、父を死に追いやった者は絶対に許さないという意志を示した。

その後、正祖は荘献を陥れた者たちを次々と処罰していくが、祖母である貞純(チョンスン)王后だけは罰することができなかった。

朝鮮王朝時代は儒教を重んじていたため、もし、正祖が祖母を処罰したら、朝鮮王朝が混乱に陥ることは明白だった。

それでも貞純王后を憎むことを忘れなかった正祖は、彼女のまわりの勢力を一掃したのである。

大規模な粛清を行なった正祖は、亡き父のために首都である漢陽(ハニャン)の南に位置する水原(スウォン)に華城(ファソン)を造って、そこに荘献の立派な墓を建てている。

とても親孝行だった彼の行動は、多くの人の感動を呼んだ。現在、水原華城は世界遺産に登録されている。

正祖は、祖父である英祖が行なっていた「各派閥から公平に人材を登用する政策」を引き継いだ。

正祖が残した功績

しかし、「人材発掘を堂々と行なえば派閥争いに巻き込まれてしまう」と考えていた彼は、奎章閣(キュジャンガク)に目をつける。

奎章閣は王室の図書館であり、重要な書籍の編纂や文献などの保管を行なう場所だ。

正祖は、そこに有望な若者たちを集めて、様々な研究を行なえるようにした。最終的には100人以上の学者たちが奎章閣に集まり、正祖の文明開化に尽くした。

正祖の功績はそれだけではなく、政治や経済、文化や庶民の生活水準の向上など、数え切れないほどある。

それだけ多くの功績を残した正祖だが、1つだけ失敗を犯している。それは、祖母である貞純王后を厳格に処罰しなかったことだ。

正祖は1800年に世を去るが、彼は貞純王后によって毒殺された可能性がある。結局、正祖の後を継いだ23代王・純祖(スンジョ)がまだ10歳だったために、貞純王后が摂政をした。

貞純王后は正祖が進めていた改革をすべて潰すと、自分の息がかかった者を要職に就けるなどして、政治を私物化した。

正祖にとって、これは最大の不幸といわざるを得ない。

(文=康 大地/カン・ダイチ)