5月14日、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も愛されたサッカー指導者、イビチャ・オシムの葬儀が行なわれた。彼の亡骸はサラエボ郊外のベア墓地に埋葬された。ここには政治家からミュージシャンにいたるまで、多くのボスニア・ヘルツェゴビナの名士たちが眠っている。

 会葬者は家族やサッカー関係者400人に限られたが、オシムを信奉する少なくとも4000人のサポーターが墓地の周辺に集まり、埋葬の瞬間、オシムが好きだった歌「グラバビカ」を合唱した。グラバビカは、オシムが生まれ育ったサラエボの地区であり、彼がプレーし率いたチーム、ジェリェズニチャルの本拠地がある。ユーゴスラビア紛争時には激しい戦闘が繰り広げられた場所でもあり、その歌はこんな歌詞で始まる。

「グラバビカ、傷つき怒り、大いなる悲しみが我を打ちのめす」

 埋葬に先立ち、ジェリェズニチャルとボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー協会(FSBiH)の主催で、オシムの追悼式典がサラエボの国立劇場で行われた。式にはサッカー界、政界などから約500人が招かれ、劇場の外には100人以上のオシムを慕うファンが押しかけていた。またその様子はボスニアの『BHTV』で全国中継されたほか、旧ユーゴ圏をカバーする『TV N1』でも放映され、少なくとも100万人の人々が中継を見たと言われている。

【画像】サラエボで行なわれたオシム氏の葬儀。棺が墓地に運ばれる時の様子
 70分間の式典はまず国歌から始まり、その後にオシムの生涯がなぞられた。愛すべきその人となりを想い起こし、多くの人が涙を流したが、それと同時に彼の功績に感謝もささげる、悲しみの中にも厳かさのある式典でもあった。60年間彼に連れ添ったアシマ夫人も、彼の3人の子供や孫たちも彼のことを誇りに感じていたことだろう。

 その後には式に列席した人々の弔辞が続く。

 オシムの愛弟子であり現ボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督メフメド・バジダレビッチは「オシムはまれなる存在だった。彼は我々のキャリアに、人生に、そしてなによりサッカー界に大きな足跡を残した」と述べた。

 FSBiHの幹部の一人、ケリコ・コスミッチはこう言った。

「イビチャはこの国が最も大変な時に大きな貢献をしてくれた。彼の心にはいつも祖国があり、彼は決して裏切らなかった」

 そして最後にこう結んだ。

「シュワーボ(オシムのニックネームでドイツ人の意味、彼は金髪だったのでそう呼ばれていた)、この複雑なボスニアという国を見守ってください」
 オシムの逝去を嘆くのは、なにもボスニア・ヘルツェゴビナの人たちだけではない。

「シュワーボが亡くなったと聞いた瞬間、彼がこれまでしてくれたことが私の頭に次々と浮かんできた。それはサッカーの世界のだけに留まらない」

 そう語ったのはセルビアのサッカー協会副会長であるネナド・ベコビッチ。彼はオシムのユーゴスラビア代表時代のチームメイトでもあった。

「君は永遠の作品を作った。君はいつも次の時代を生きていた。いつも先を見ていた。そして我々のサッカーをより豊かにしてくれた」

 この追悼式には、かつて彼のユーゴスラビア代表でプレーした4人の背番号10が集まった。ボスニア・ヘルツェゴビナからはメフメド・バダレビッチとサフェト・スシッチ、そしてセルビアのドラガン・ストイコビッチとクロアチアのズボニミール・ボバンだ。

 UEFA会長の名代も兼ねていたボバンは、1年間だけであったがオシムの下でプレーした。

「偉大な選手、偉大な監督である以上に、偉大な人間だった。オシムに教えを受けたことを私は誇りに思う。彼がごく自然な態度で接してくれたので、我々若手もリラックスしてプレーすることができた。親し気に私のことを“ズバンス”と呼んでくれて、それがうれしかったのを覚えている。

 彼は誰よりも先を、誰よりも高みを見ていて、誰よりも賢かった。彼がいつも口にしていた『よく走る者を敬え』という言葉を私は決して忘れない。こうした教えは彼の教え子たちの中に息づいて、今また次世代の選手たちに受け継がれようとしている」

 彼の教え子で現セルビア代表監督のピクシーことストイコビッチも弔辞を述べる予定であったが、あまりの悲しみの大きさに、最後まで言葉も発すことができなかった。
 
 オシムが愛してやまなかった日本からも、日本サッカー協会の反町康治技術委員長がはるばる駆けつけ、彼の日本サッカーへの貢献に感謝の言葉を述べた。イビチャも喜んでいたに違いない。彼はオシムが日本監督時代、その下でコーチを務めていた経験がある。また在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館の伊藤大使も列席された。

 偉大な人物を惜しむ気持ちに国境はない。

 サラエボ市政府は市内の中心部の道、もしくは広場にイビチャ・オシムの名を冠することを発表した。またユーゴスラビア連邦が分裂する前に首都であったベオグラードでも、イビチャ・オシム通りが誕生することが決まったという。

 オシムは目の前の人間がどこで生まれたかを、一切気にはしなかった。彼はいつもその人間そのものを見ていた。だからこそ彼は国境や主義や主張といった垣根を越えて、皆から愛されたのだろう。彼の追悼式はそれを如実に語っていた。

 そしてそれこそが、オシムが最後に私たちに遺してくれたメッセージなのかもしれない。

取材・文●ズドラフコ・レイチ
翻訳●利根川晶子

【著者プロフィール】
ズドラフコ・レイチ(Zdravko Reic)/1941年クロップ・スピリット生まれ。1959年より『スロボンダ・ダルマチア』紙のスポーツジャーナリストとして活躍。同時に『スポルツケ・ノボスティ』のコラムも執筆。『フランス・フットボール』、英国の『ワールドサッカー』のクロアチア支局員も長きにわたり務める。2005年からはクロアチア国営TVのサッカー番組のメインパーソナリティーに。ボバン、ボクシッチ、スティマッチ、ヤルニ、アサノビッチなど多くの元クロアチア代表選手と交流があり、とりわけ現代表監督のビリッチとは懇意の仲。オシム氏とは1964年来の付き合いだった。