シント=トロイデン(STVV)と大分トリニータが、両クラブの発展と人材育成を主目的とした業務提携を結んだことを発表したのは2018年2月。その縁で、大分トリニータ・アカデミー部門の選手やスタッフは18年、19年とSTVVで短期留学を実施。コロナの影響で一時中断されたが、今年の8月、久しぶりに留学が復活した。

 シント=トロイデン(STVV)の立石敬之CEOは「『以前、STVVに留学した選手たち(屋敷優成、弓場将輝)がプロになりました』という連絡をもらって、嬉しかったですよね。大分トリニータは、DMM.comがSTVVを買収したときからの提携クラブ。コロナ禍以降、初めてSTVVに来てくれました」と顔がほころぶ。

「この間、(大分の選手・関係者たちと)食事をしたんだけれど、料理や言葉がわからないなりに自分で注文したりすることが大事だと思うんです。そういうたくましさも含めて、日本に帰ってからが重要。ベルギーで急にうまくなることはない。ここでの刺激を受けて、日本に戻ってから、選手たちの日常のルーティンが変わっていかないといけない。そういう話を彼らにしました」

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「日常のルーティン」とは何だろうか?

「ベルギーではインテンシティが高いことが日常になっている。ベルギーから日本に戻った直後、コーチは『あそこのパススピードをもっと上げないと、ベルギーでは通らなかったでしょ。もっと速く、もっと速く』と選手たちに刺激を与える。それが1か月、2か月と経つうちに薄れていってしまうわけですよ。そういう刺激が日本にないと、ヨーロッパに行かないと日本代表になれないみたいな風潮になってしまう。Jリーグが世界最高のリーグを目ざすのであれば、その刺激を日本の日常の中で作らないといけない」

 インタビューの指定場所に赴くと、そこには前日、話を聞いたばかりの大分の小澤正風 COOの姿があった。

立石CEO「僕が大分の総括部長をしていた時、1年間だけ、コーチをしたんです。当時の僕は運営、総務、補強を兼ねていたから、『もういっぱいいっぱいで無理です』となって、旅行会社に勤めていた小澤くんを紹介してもらって『助けてほしい』と遠征マネージャーを頼みました」

小澤COO「前職柄、まったく苦にならないですからね。2000年に大分に入りました」
 私が立石CEOに「『トリニータ愛』を語ってもらえませんか?」と訊くと、「彼に聞いたほうがいい」と20年以上勤め続けている小澤COOに目配せした。すると「離れて分かる大分愛じゃないの」と、立石CEOに返す。同級生の仲の良さがストレートに伝わってきた。

「大分トリニータが何もないところから始めたので、僕から話を聞くと苦労話しか出てこない。スタジアムもなかった中、『大分にワールドカップを誘致したい』と掲げて『お前ら、馬鹿か?』と言われてましたから」と立石CEOは前置きしてから、当時のことを語り始めた。

「僕は大分で97年から99年までプレーし、引退後、クラブの運営部長兼総務部長兼強化担当を務め、会社に泊まりながら時間を忘れるまで仕事していた。経理を全く勉強してこなかったから、当時は領収証の金額にカンマ(,)を入れることすら知らなかった。そういうことを叱られても、自分としては選手上がりだから『驚き!?』 ですよ。例えば森重真人が引退してFC東京に就職したら、そんな扱いをされないよね」

 試合前日にはボランティア50人に「明日はよろしくお願いします」と電話をかけ、当日朝7時に水道局に行って大分市営陸上競技場の鍵を借り、9時から設営を始め、午後2時キックオフ前にはラインを引いた。特に引退翌年、大雨が降った時のライン引きは、今も忘れることができないという。

「大分のキャプテンとして主力だったのに、『こんなことをしていていいのか』と情けない自分がいた。自分は指導者として現場に行きたかったけれど、溝畑宏社長(当時)から『まだ現場には出せない』と言われ続けていたんです」
 
  それでも現場に出たいという思いの強かった立石は、朝8時から夕方5時まで会社の仕事をし、ユースのコーチとして朝6時からの朝練習、夜10時までの練習を指導した。

「その時に清武弘嗣とかが出てきました」
  
 2002年にはトップチームのコーチも務めた。大分は1999年から3季続けてわずか勝点1差でJ1昇格を逃していた。2002年にJ1昇格ができなかったらトリニータがなくなるんじゃないか」というプレッシャーもあった。大分は当時の小林伸二監督のルートを頼りに他のクラブからコーチを招聘しようとしたが、結局、契約に至らなかった。

「伸二さんが『立石をコーチにしてくれればいんだけれど』と溝畑さんに頼んだら「ありえない」と。『でももう他に候補がないから』って粘って粘って、本当に2002年の開幕戦の前に『しょうがない。けど立石くん、1年だけやで』って初めてトップチームのコーチになった」

 この時期は、ユースの朝練習、トップチームの2部練習、ユースの夜練習というサイクルだったという。

「周りのフロントは『立石さんが捕まらない』とずっと言ってました」(小澤COO)

「だけどクラブのどこかにいるんです(笑)。すごい働いていた。壮絶だった。今、もう一回あれをやれと言われたら……。無理だな」
 小澤COOが「大分のユースが広島に20何対ゼロで負けたのは2000年だった?」と話題を振った。立石CEOは「そう。それでユースを立て直した」と答えた。

「当時、GM研修というのがあって、僕はその第一期生としてアヤックスのレポートを提出したんです。その一環でフィテッセのGMと会って、『もしクラブが倒産しそうになったらどうしますか? 育成を無くして、トップチームだけを何とか残すとか』と訊いたら、『考える余地はない。トップチームを潰す。育成を残しておけば3年後に彼らが上がってきて、チームをもう一度作ることができる』と。オランダ人らしいなと。その時の言葉がすごく染み込んでいる。だからさっき、冗談で『大分も潰れそうになったらユースだけでも残せ』って言っていた」

 FC東京では一流の指導者を招聘し、予算もあった。しかし、大分ユースの強化は「皇甫官さん、柳田伸明さん、そして僕の3人でグルグル回していた」という。幸い、選手の素材は良く、「プラスして、ハートが良かった」と立石CEOは振り返る。

「多々良学園(当時。現高川学園)出身の高松大樹がそう。彼は僕が初めて契約した選手だった。長崎県出身の梅崎司はハングリーだった」

 アカデミー出身の西川周作、梅崎、清武、東慶悟、高卒の高松、金崎夢生、森重真人などがチームの主軸を担い、「育成の大分」として名が知れ渡った。

 2008年、大分はナビスコカップで優勝し、J1で4位という好成績を残した。立石CEO本人は「大分でやり尽くした」という思いで、その前年クラブを去って、優勝時にはヴェローナにいた。

「シャムスカ監督を招聘したのが、僕の大分での最後の仕事でした。大分の黄金期ですよね」

 大分で過ごした9年間、日韓ワールドカップの前には組織委員会、溝畑社長とカメルーンを中津江村(現日田市)キャンプに誘致するためヨーロッパを周ったという。また、当時の大分県知事は一村一品運動で有名な平松守彦氏だった。

「ああいう人たちと若い時に知り合えたのは良かった。サッカーを勉強したい自分がいて、政治や経済も学ばないといけない自分もいた。その狭間に苦しんでいた時期でした」
 
 そして、引退直後、大雨の中でライン引きをし、領収証作成でカンマを付けることを知らなかった時期のことを、改めてこう振り返る。

「僕の仕事もハチャメチャでした。覚えることばかりで、1で済むことが2かかってしまうわけで、時間もかかってしまう。だけど、慣れると早くなって、資料作りの精度も上がって時間も短縮されていく。今、考えたら、もっと効率の良い手はあったけれど、当時の大分にはたくさんミスをさせてもらえた環境がありました。そもそも、今、どこかのクラブで強化部長を30歳前半でさせてもらえるかどうか。仮にやらせてもらえても1年2年ダメだったらクビじゃないですか。でも、当時の大分は3年間J1に上がれなかったんですからね」

 北九州市出身、国見高校、大分トリニータOB、アビスパ福岡顧問の立石CEOは、九州勢に向かってこうエールを送る。

「これは福岡の人も言うんだけれど、カップが開門海峡を渡ったのは大分トリニータがナビスコを獲った1度だけ。鳥栖も福岡もカップをまだとってない。それは大分にとってはすごいこと。一方で、それじゃダメなんだけれどね。頑張れ九州!」

取材・文●中田 徹

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