元日本代表監督の西野朗氏が9月23日、元日本代表MFの鈴木啓太氏のYouTubeチャンネルにゲスト出演。自身の現役時代などを振り返った。

「浦和で生まれたのがサッカーの虜になるきっかけ」だった西野氏は、中学生の頃から頭角を現していた。ただ、丸刈りが嫌で強豪校ではない浦和西高に進学。それでも全国高校選手権に出場。大学受験のため断ったが、日本代表からも招集がかかった。

 早稲田大進学後に参加した日本代表では、キャンプで11歳年上の釜本邦茂氏と同部屋になる。当時は用具係がいなかったため、釜本氏のユニホームなどを洗濯していたという。鈴木氏は「環境に甘えすぎてはいけないなとすごく感じる」と感嘆する。

 その後、西野氏は1977年に奥寺康彦氏と金田喜稔氏とともに、日本代表の強化策の一環として、ドイツのケルンに派遣された。技術面に関しては、金田氏と「ケルンの選手たちよりも、はるかに上手いよな。俺ら」と話していたが、実際のプレーでは屈強なドイツの選手に潰されてしまったという。

 一方、奥寺氏については「スキル的にはあまり高くなかったけど、馬力とスピリットでミスをミスともしないようにフィジカルでカバーしちゃう」点が認められ、ケルンとの契約に至ったと明かす。
 
 78年には日立製作所に入社した西野氏。85年には、Jリーグの前身の日本サッカーリーグタイ記録の8試合連続ゴールを達成した。チーム状況が悪かった時、“キャプテンの自分が得点”すると決意し、見事にそれを実行してみせた。

「決断してから結果を出すのが得意なんですかね」と驚く鈴木氏に、西野氏は自身がリスクを感じないで突き進むタイプだと分析。岡田武史氏には「一流の鈍感力」と称されていると笑った。

 当時は日本代表でも大卒選手の現役生活は5年程度だったという。まだJリーグが無かった時代。引退後にサッカーに関わるには教員だと思い、教員免許を取得していた西野氏は、30歳の時に母校の恩師に相談したが、サッカー重視な点を否定され「お前が考えている教員像は間違っている」と却下される。それもあり、35歳まで現役を続行。再度母校を訪れたが、同様に断られてしまう。

 思わぬ挫折を経験した西野氏は、日立製作所で2年間コーチを務める。その後、川淵三郎氏に誘われて日本サッカー協会に出向し、91年にU-20日本代表監督を任された。

 その後は、指導者として華々しいキャリアを刻む。96年のアトランタ五輪では“マイアミの奇跡”でブラジル代表を撃破、G大阪監督時代にはJリーグやACLを制覇、2018年のロシア・ワールドカップでは決勝トーナメント進出。“サッカー重視”の信念が、輝く未来を切り開いたのだろう。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部

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