ブラジルの地で味わった悔しさは、今でも覚えている。

 2019年に同地で行なわれたU-17ワールドカップ。グループステージ初戦はCBで先発し、3−0の快勝に貢献した。キャプテンとしてチームを束ね、日本はノックアウトステージに進出。世界一に向けて、勢いはあった。

 しかし、現実は甘くなかった。ベスト8入りを懸けた一戦ではピッチに立てず、チームはメキシコに0−2で敗れた。

 あれから4年、主戦場は右SBに変わり、さらなるスケールアップを目ざしている。

 パリ五輪世代で期待のタレントをディープに掘り下げるインタビュー連載。第5回目は、ガンバ大阪の半田陸だ。五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジアカップ開幕まで5か月に迫るなか、A代表歴もある21歳の想いに迫った。

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 モンテディオ山形の育成組織で育ち、高校3年生ながらプロサッカー選手としてプレーしていた2019年の10月下旬。半田は日の丸を背負い、ブラジルの地でU-17ワールドカップを戦っていた。

 当時、本職としていたのはCB。陸上競技の短距離で活躍した両親譲りの身体能力を武器に、最終ラインの真ん中で屈強なアタッカーを封じる役目を担っていた。同時にチームリーダーとしての重責もあった。早生まれで最年長だったことや、真面目で実直な性格を買われてキャプテンを任されるなど、U-17日本代表の森山佳郎監督から絶大な信頼を得ていた。

 その一方で、当時はプロとして大成し、世界に飛び出していくような考えは持っていなかったという。

「自分よりレベルが高い人たちと練習して、単純に上手い人からボールを取りたいという想いしかなかった。この人たちより上に行きたい。ただ、それだけでした」

 純粋無垢なサッカー少年。それは昔から変わらなかった。

 2002年の1月1日。山形県上山市で生まれた半田は、幼稚園の頃からボールを蹴り始める。家の前で家族やいとことサッカーに興じ、一瞬で虜になった。

 小学校1年生の時に上山カメレオンFCで本格的にサッカーを始めると、恵まれた体格と足の速さで頭角を現した。同時に陸上の短距離でも好成績を収め、山形県教育委員会の小学校スポーツ優秀賞を受賞。その才能は多方面で発揮されていたが、半田はサッカーから離れる考えは微塵もなかったという。

「所属していたクラブで楽しくプレーしていたし、やっぱりサッカーをやりたい気持ちは強かった」

 両親から陸上競技への転向を勧められることもなく、上手くなりたい一心で毎日のようにボールを蹴っていた。ポジションなんて関係ない。前でも後ろでも求められた場所で戦った。

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 そんな小学校時代を過ごした後、半田は新たなチャレンジを決断する。モンテディオ山形ジュニアユース村山への加入だ。かつて上山カメレオンFCに所属していた3つ上の先輩が籍を置いており、毎年チームからセレクションを受けに行く流れに自分も乗った。ただ、決してプロのサッカー選手になるための近道だと考えて選んだわけではない。

 理由はいたってシンプル。「上手い選手と一緒にやりたい」。

 小学校時代はチームから地域のトレセンに行く文化がなく、同年代の上手い選手たちとプレーする機会は皆無。そうした状況下でセレクションに合格し、晴れてモンテディオのユニホームに袖を通すことになった。

 しかし、加入当初は仲間の技術に驚いただけではなく、輪に入っていけず苦労したという。

「みんな小学校の時からトレセンなどで面識があって、すでに知り合いという状況でした。その中で僕がいきなり入ったので、最初は難しかった。選手のレベルも高くて、この中でやっていけるのかという不安が少なからずあった」

 ポジションは定まっていなかったが、この頃は自分に合ったプレーを模索している段階でもあった。

 徐々にチームに馴染んでいくと、自分の良さを理解できるようになる。コーチの助言もあり、中学2年生の頃には守備の面白さに気づいた。CBとSBで起用され、“守る”楽しさが芽生えていく。ただ、SBとCBのどちらかを選ぶつもりはなく、「それぞれ違った楽しさがあった。どっちでプレーしたいという気持ちもなかった」。

 この頃、半田は初めてナショナルトレセンに入り、もう1つ上のレベルでプレーする機会も得る。そこでまた新たな選手と出会い、大きな刺激を受けた。
 
「ジュニアユース村山に入団した時と同じような感覚がありました。さらに1つ上のレベルの選手たちがたくさんいて、練習からめちゃくちゃ緊張したのを覚えている」

 今までに味わった経験がないステージでの戦いは、半田のモチベーションを高めた。新たなライバルと遭遇するたびに高揚感が味わえる。負けてもその悔しさを力に変え、成長するうえで新たなエネルギーになった。

「いろんな素晴らしい巡り合わせのなかで、常に切磋琢磨できる環境に身を置けたのは大きい」

 その積み重ねが認められ、ついに日の丸を背負うことに。2017年の2月。早生まれで資格を有していたU-15日本代表の活動に招集されたのだ。

 2019年のU-17ワールドカップを目ざすチームにとって、立ち上げとなる合宿。「日の丸がついたユニホームを着られる。すごく嬉しかったし、誇らしかったです」。半田は胸を躍らせて、新たな境地に足を踏み入れた。

 ここでもまたレベルの高さを痛感させられる。当時、エースとして注目を集めていたのが、FW西川潤(現・鳥栖)だった。

「今までに味わったことがない感覚」。同じ早生まれ組だったが、力の差を嫌というほど見せつけられる。スピードでもテクニックでも上回られ、マッチアップしても勝てなかった。

 もっとも、そうした経験を力に変えて成長してきた半田にとっては、特別なことではない。U-15代表での出来事は挫折ではなく、成長スピードを加速させるひとつのきっかけに過ぎなかった。
 
 17年9月にはU-16アジア選手権(現U-17アジアカップ)の1次予選を経験。気がつけばキャプテンを任され、チームに欠かせない選手に成長を遂げていた。

「代表とかプロとかは漠然としたものでしかなく、ただ上手い選手たちに追いつきたいとか、この人たちからボール取りたいだけ。単純にそういう想いのほうが強かったかもしれない」

 生粋のサッカー少年は、アジアの舞台でもより高みを目ざしてライバルたちと戦う。U-16アジア選手権で優勝を収め、ワールドカップに挑む権利を掴んでも、その想いは変わらなかった。

 そして、迎えた2019年の10月下旬。半田は初めてアジアを飛び出し、国際舞台を戦うことになる。U-17ワールドカップのグループステージは、オランダ、アメリカ、セネガルと対戦。いわゆる“死の組”に組み込まれたが、日本は初戦でオランダに3−0で完勝し、続くアメリカ戦は0−0で引き分け。セネガルとの最終戦は1−0で勝利し、2勝1分、無失点で首位突破を決めた。

 半田はキャプテンとしてCBでハイパフォーマンスを見せ、ターンオーバーしたセネガル戦では右SBに回り、凄まじい身体能力を持つ相手を封じ込めた。

 ここから世界一へ。ただ、ラウンド16のピッチに半田の姿はなかった。足を痛め、ベンチスタート。無理をすれば出場できたが、その先を見据えて治療に専念した。

 想いを仲間に託し、ベンチから戦況を見つめた。キックオフ直前まで快晴だったが、国歌斉唱のタイミングで滝のような雨と雷に見舞われた。
 
 日本はメキシコに立ち向かうが、グループステージで見せたような躍動感を出せず、悪天候の環境を活かして戦ってきたメキシコに圧倒されてしまう。0−2で敗れたが、スコア以上に力の差を見せつけられた。

「U-17の本大会前にいろんな国に遠征したけど、練習試合とは全然違う。公式戦はまったく別。そういう一段階も二段階もギアが上がってくるところは、僕らが見習うべきところ。すぐに変えられるかは分からないけど、ノックアウトステージは、練習試合ともグループリーグともまた違う強さも感じさせられた」

 もっと上手い選手と戦いたい――。そうやって成長を遂げてきた半田にとって、U-17ワールドカップの敗退は今までにない経験だった。だが、この経験が半田にとって、本当の意味でプロサッカー選手としてのスタートになる。

「試合に出られずに敗れた。本当に悔しい結果。自分を見つめる機会になった」

 ワールドカップの借りを返すべく、次の国際舞台に向けて走り始めた。

※本稿は前編。後編は11月29日に公開予定です。

取材・文●松尾祐希(サッカーライター)

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